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追いかけてきたものは…

白馬でした。

自転車を乗っている私を後ろから、白い馬が追いかけてきます。
でも、これは、全然のどかな風景ではなく、私は恐怖にすくみあがり、必至に逃げているのです。
なぜなら、この馬、何か様子が違います。

ポッカリと開いた2つの眼窩には眼球がなく、どこも見ていないはずのその眼窩は、しっかりと私を見据えて、口を半開きにして、私を後ろから追いかけてきます。

こんな夢を見たのは前日、そんな馬の屍骸を目撃したからでした。
まだ新鮮そのものに見えるその屍骸は遠目には生きている馬が寝ているのか?と思うほどでした、でも馬ってこんな横倒しに寝るんだろうか。そんな疑問が頭を横切るほど、その屍骸は死んでると思わせないほどの新鮮さでした。
でも、近づいてみると確かにその馬は死んでいて、すでに目を食い破られて、眼球のない眼窩が空を見つめていました。

ほかはほとんど損傷なく、目だけない馬の屍は不気味で、なにか、死神を見たような嫌な気持ちになりました。

これは、パソシコ(paso sico)という、チリのサンペドロアタカマから、アルゼンチンのサンアントニオコブレスに向かう峠を越えている途中でした。

エルラコ(El laco)という、4000mを超える、山頂は5000mにとどくかという鉱山の管理事務所で、たった一人、オフシーズン中の管理を任された齢68のガルバリーノは、水をもらおうと立ち寄った私を管理事務所に2泊も泊めてくれました。

ガルバリーノは毎朝、自分で小麦粉と水を混ぜて、パンを焼きます。そしてをれを私にも分けてくれて一緒に食事をしました。夜は私が何か適当に作ったように思います。ガルバリーノも日本食は食べたことがないといって喜んでくれました。

あと何カ月かで、交代用員がくれば、晴れて御役御免となり、家族の元に帰れるんだと、よく家族の写真を見せられました。

そんなガルバリーノのいる、エルラコを出た日でした。
エルラコをでて、峠を2つほど越えて、パソシコを通過するとアルゼンチン側のイミグレがあるのですが、朝から風が強く、焦っていた私は峠を越えたあと、もう早く山をおりたい一心で、本当はスピードを抑えて下らなければいけないような石のゴツゴツしたダートの下りを下るに任せてもうスピードで、下ってしまいました。
その結果、パンクしたばかりか、リム(タイヤのはまっている金属の輪っか)を破損してしまいました。
破損したといっても、リムを地面に出ている石に強く打ちつけてしまって、リムが少し広がってしまった位でしたが、乗り心地は随分悪くなってしまいました。

そのあと、イミグレを通り、アルゼンチンに入り、身の毛もよだつような馬の死骸を目撃したのでした。

この日は長い1日で、イミグレを出てから、広大な大地をどこまでも走っても、岩陰すら見つけることができず、風は吹きっさらしで、自転車は壊れるし、気持ちは焦るばっかりでした。イミグレを過ぎてから、平坦だけど悪路が長く続いて、その後はゆるやかだけど上りがこれまた長く続きました。自転車は思うように進まず、時間だけが過ぎていきます。永遠に続くかと思えた上りが終わると、今度は緩やかですが、道は下りに転じました。でも道は相変わらず悪く時には砂にハマってしまいます。


もう日は西に傾き、そろそろ本気で、テントを立てるところが見つからないと今晩死ぬんじゃないかと思っている時でした。

10棟ほどの集落を遠く前方に発見しました。助かった、どこかにテントを立てさせてもらおう。うまく行けば物置にでも寝させてくれるかもしれない。

とおもって、喜び勇んで、集落に急いだのですが。。。
残念ながらその集落には全く人がいませんでした。
でも、どこかの家の陰とかにテントを張れば何とか風は防げるかもしれません。
でもできればコの字型とか、L字型の壁の中とかが好ましいものです。建物の中なら、文句ありません。
そう思って、集落の建物をひとつひとつ、どこか忍び込めないものかと点検していくと、集落の中でも一番ましな、役所か、警察の建物みたいな、しっかりした建物の正面の扉が針金で簡単に結び付けられているだけなのをまっ先に発見しました。

これはちょっと、ここをちょちょいとこうしたら開くんじゃないの。。。
とやってみると簡単に、開いてしまいました。

今日はとりあえずここに忍び込もう、だけかが来たら、風がすごかったから避難したんだと言えばまあ、大きな問題にはならないかもしれないし。とにかく、安心して眠れるところがいい。

そう思って、忍び込んだ建物は最初の部屋の左奥の隅に煖炉がありました。もちろん、火はついてませんが、煖炉のうえにクラッカーが乗ってました。袋は開けられているものの、半分以上残っていました。

いつのものかは分かりません、誰のものかも分かりません。でも、私はとてもおなかが空いていました。
きっと、湿気ってるだろうなと思いながらも、エイッと1枚口にほうり込んでみました。
。。。
。。。

サクッ

え、おいしい。。。

結局全部食べてしまいました。

煖炉の横の扉は最初の部屋の左に位置する部屋に通じていました。何もなくて、ちょうどテントが立てられるくらいの大きさの部屋でした。

ここだ。

と思って、私はそこにテントを立てて、キャンプ用の火器で、ご飯を炊き、夕食を済ますと、勝手に建物に侵入したことをちょっとだけ後ろめたく思いながら眠りについたのでした。

そんな精神状態だったから、きっと馬に追いかけられる夢を見たのでしょう。






あれから10年。

私は同じパソシコをこえました。
ラグーナベルでまでの道のりは前回書いたように非常につらく苦しいものだっただけに、10年前、一番つらかったこのパソシコも精神的に余裕を持って越えることができました。
覚えているところもあれば全然覚えてないところもありました。どちらかというと覚えていないところの方がほとんどでした。

でも、馬の夢を見たあの建物は忘れることができませんでした。
実はそれがどこにあるのか、何日目だったのか、全然覚えていなかったのですが。。。

10年たって、その建物を発見しました。10年前のあの日は今考えると、悪路と強風の中を峠と峠らしきところを3つも越えて、90km位走っていたことになります。

今回は最初から、泊まる場所をずらしていたので、エルラコに昼間についたので、エルラコには泊まらずにアルゼンチン側のイミグレまで走ってそこで泊めてもらいました。
だから、10年前に泊まった件の建物まではイミグレから50kmで到着したのですが、10年前はエルラコからそこまで走っているので、つらい1日だったはずです。


10年経って、件の建物は見事なほど完全に屋根が落ち、窓とドアはことごとく全てなくなっていました。
壁もところどころ崩れ、いまではテントを立てるのも、心もとない頼りなさでした。
あの煖炉は半壊し、テントを立てた部屋も落ちた屋根の残がいか、石や土砂が積もり、3分の2ほどがガレキで埋まり、残りはトイレになってました。

煖炉を前にした時、あのクラッカーの袋がフラッシュバックしてきて、10年の歳月を感じ、なんか突然感傷的な気分になってしまいました。


10年前、この建物を出て、10kmほどで、人の住む、普通の町、いや、村にたどり着いたことを覚えていたので、今回はそこまで走りました。
あの時はあと10km頑張ってればとちょっと悔しい思いをしたので覚えていた村でした。

そこから、60km最後の峠を越えてサンアントニオデコブレスという町に至ります。ここはガイドブックにも載っている、まあ、まともな町ですが、そこで、ひとりのサイクリストのおじさんと同じ宿になりました。
このおじさん、ここから、最初、私が行こうとしていた、サラルデオンブレムエルト(男の死の塩湖)方面に行くと言ってました。

この道は下手すると、ラグーナベルデよりも辛くなるかもしれないと、私は避けてしまったところにこれから行こうという人が現れたのでした。

ちょっと羨ましくも思い、ついて行こうかとすら思ったのですが、さっき越えてきた最後の峠をまた越えて、あの建物まで戻らなければなりません。そこから、さらにつらそうな道に入っていくのです。やっぱり考えただけで気が遠くなりそうだったので、やめてしまいました。

その代わり、南米最高の峠、アブラアカイ(アカイ峠、4895m)をこえて来ました。サンアントニオがすでに3700mということで、この峠は南米最高といっても、こっちから越えるのはそんなに大変じゃありませんでした。

いまは、サンフランシスコ峠という峠を越えて、チリ側に戻ろうとしています。あと3回。アンデスを越える予定です。
by fuji_akiyuki | 2010-12-13 09:36 | チリ・アルゼンチン
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