カテゴリ:中国4( 2 )

関心を持ってくれてありがとう!!

いま、成都はシムズゲストハウスにて、ちょっとボランティアを手伝ったりなんかしています。

 中国は今オリンピックで盛り上がっています、開会式、すごかったですね。さすが中国が国の威信をかけただけはあるなぁと感心するのと同時に「なぜ?」という疑問符も浮かんできました。

 覚えているでしょうか。約3か月前、ここ、中国は四川省のブンセンという街を中心に大規模な地震があったことを。

 くしくも、北京オリンピックの開会式、8月8日に初めて被災地を訪れて、被災者のお手伝いをさせていただきました。

 その日のボランティアの内容は被災して、倒壊した家屋のがれきを撤去して、更地にしようというものでした。

 依頼者とは被災した村の中心部で落ち合う予定になっていたようで、そこまで行く途中、被災して、半壊、全壊した家屋、建造物と、家に住めずにテント生活を余儀なくされている人々を横目に見ながら待ち合わせ場所に向かいました。

 家がこんなことになったら、さぞかし落ち込むだろうな、途方に暮れてしまうだろうな。と、そんなことを思いながらも、被災者の人たちはたくましく、テントを張って商売をしたり、自分の家の瓦礫を撤去したりしている姿は、たくましくもあり、頼もしくも見えました。

 依頼者は、二十歳前後の女の子で、待ち合わせ場所に現れた時、おもいのほか小奇麗な格好をして、よく笑う明るい子だったことが大きな救いでした。彼女が被災者であることを忘れてしまうくらいでした。
 
 しかし、彼女の家に到着した時、家は完全に倒壊して、瓦礫の山と化しているのを見た時、やりきれない思いがこみ上げてきました。

 自分の家がこんなになったらどんなに落ち込むだろう。私だったら途方に暮れて、立ち直れないんじゃないだろうか。と。

 依頼者もそのお母さんも明るく、私たちをもてなしてくれました。私が中国語がわからないということもあるのでしょうが、そこには被災者という暗い影は見えないくらいでした。
 彼女たちがどれだけの悲しみや憤り、絶望を背負っているのか、もしくは背負っていたのかは、私にははかり知れませんでしたが、明るくふるまう依頼者たちも、もしかしたら、友人や家族を亡くしているのかもしれません。家は見た通りほとんど跡形もなく瓦礫と化しているわけで、その思う所は想像するしかありませんが、きっと筆舌に尽くしがたいものでしょう。

 とにかく、がれきを前にして、その日できることを全力でしようと決心しました。

 しかし…

 がれきを撤去するにもがれきを置く場所がありません。がれきを運ぶトラックもなければ、家の三方は田んぼや畑で、作物が実り始めた所にがれきを積むわけにもいかないし、もう一つの面は道路で、そこにがれきを置くわけにもいきません。

 結局依頼者の母親の意向により、がれきの約3分の1の部分をとにかく開けてくれ、と言うので、残り3分の2のがれきの上に積み上げることしかできませんでした。
 いずれ誰かがそのがれきを撤去しなければならないはずなので、作業としては2度手間なのかもしれません。がれきは家の敷地の中で移動しただけです。ただ、一時的なものかもしれませんが、私たちが空けたスペースに依頼者が仮設住宅なんかを建てて、少しでも居住環境を良くするのに役立ててくれていただければと、願う限りでした。

何の専門的な知識も技術もない、ノウハウもなければ重機すらない私たちにできることは本当に些細なことしかありません。 車の関係で、一度に被災地に赴けるのはたったの7人だし、自分の無力さを思い知らされて、絶望したり、呆れかえったりしました。こういう微々たる作業がどこまで被災者の方々のお役にたてるのだろうかと疑問を感じることもありました。

ただ、私たちが行かなければ村人はその作業を自分たちでやることになります。同じく人力だし、効率の悪い作業です、しかも私たちの行っている農村部では若者がほとんど街に出てしまって、有力な働き手もいません。村に残っているのはほとんど老人と子供たちばかりです。
でも、その作業をしなければ土地は瓦礫の山のまま新しい家を建てることもできないし、それなら、私たちが行けば、少しでもその作業がはかどるという事実だけが私たちがボランティアに行く意味なのだろうか、と、不毛な思いに駆られながらも、やらないよりもやった方が、怠けるよりも一生懸命やった方が少しでも被災者のためになるのだと思って、何度か、お手伝いをさせていただきました。

そんな思いでいた昨夜、このボランティア活動のリーダーで、活動をマネージして取りまとめている、NGOの方が被災地に最初に入ってから今に至るまで、このボランティア活動がどういう経緯を経てきているのかなど、説明を受けました。

地震の3日後、被災地に赴いたリーダーは、たまたま、地震当日に四川省に程近い雲南省に滞在中だったために、海外の、他のどの団体よりも早く現地入りができたそうです。
そこで見たものは悲惨極まるものだったそうです。がれきの下にまだ多くの被災者が救出されることなく眠っていて、瓦礫の山を失った家族を求めて探し回る人。悲痛な声で、家族の名を叫び続ける人。そして、掘り出された遺体の山。リーダーはこの時、屍臭がしたと言っていました。
動物でも、屍の匂いは嫌悪感のある独特のものがあります。その匂いが町全体に立ち込めていたのでしょうか。人が嗅ぐ人の屍臭の場合は、もっと悲しみとか、絶望なんかも入り混じって、もっと悲惨なものになるのでしょうか。
リーダーの話から想像するしかありませんが、きっと町全体が悲しみと、絶望に包まれていたんだと思います。

リーダーが到着した時には既に地震発生から72時間以上が経過し、生き埋めになったり、がれきの下敷きになったりして、自力で脱出ができなくなった人の生存率が急激に下がった後だったそうです。

もちろん、すでに中国のレスキュー隊は現地に入って、生存者の救出活動に精を出していたわけですが、その活動もすでに無駄な努力に終わってしまうことが多くなる時間です。それでも、あきらめずに活動を続けることによって、救出できる命もあったそうです。わずかでもそういった命がある限り救出活動を続けて、がれきの山に一生懸命呼びかけて、反応の有無を確かめて、どうにか生存者を救い出そうとしていたそうです。

悲しみと絶望に満たされた町で、リーダーが何を感じたのか、想像できるものではありませんが、彼は自分ができることをしようと、ここ、シムズゲストハウスで、旅行者を集めて、がれきの撤去に向かったそうです。

大きな街はすぐに政府や人民解放軍から復興の手が入ったようですが、今、私たちが行っているような、小さな農村部には何の救助の手も入らず、がれきと化した我が家の前で、悲しみにくれ、絶望に打ちひしがれた村人を支援しようと活動を始めたそうです。

中国の農村においても家は財産で、一生ものの買い物です。それが一瞬にして崩れてしまっては、瓦礫を前に途方に暮れるばかりで、再建に向けて動き出すまで立ち直るのは大変なことでしょう。私たちのよく行く村では亡くなった方はいなかったそうですが、被災地には家も崩れて、家族や友人や愛する人を亡くした人もたくさんいます。そんな人たちの絶望や悲しみはどんなに言葉を連ねても表現できないでしょう。

リーダーが最初に入った家の主人も家が崩れ、途方にくれ、瓦礫を前にして、再建どころか、ほとんど寝込んでいたそうです。

家が瓦礫と化したら、もう新しく建て直すしかないとしたら、誰も手伝ってくれないとしたら、一つ一つ、自分でやるしかありません。まずは瓦礫を撤去しなければ土地がありません。
きっと頭では分かっていても、どこから手をつければいいのかわからない。途方に暮れて、何をしたらいいのかわからない。おびただしい量のがれきはいつになったら無くなるのなるのだろう。瓦礫がなくなったところで、家の再建にはいくらのお金がかかるのだろう。

こんな不安材料だらけの再建への道を前にして、地道にがれきの撤去に手をつけられる人はどれだけいるでしょうか。自暴自棄になって、何もかもが嫌になって、寝込んでしまう方が、自然な反応かもしれません。

そこにリーダーが日本人の若者をつれて、
「こんなになって大変だよね。おじさん、寝ててもいいから、おれたちが瓦礫の撤去手伝うよ。」
と言って、瓦礫の撤去を始めたそうです。

気の遠くなるような長い道のりではありますが、リーダーたちは瓦礫の撤去から始めて、2日、3日と経つうちにがれきは無くなっていって、家の主人も元気づけられたそうで、みるみる回復していったそうです。

孤独に放っておかれたら、村人たちの絶望はどんなに深いものだったのでしょうか。
誰かが気にかけてくれる、わずかでも助けてくれる。そんな思いが村人たちを勇気づけて、復興に向けて立ち上がる大きな礎となったそうです。

リーダーのNGO活動の大きな目的の一つとして、村人達の個々の小さな声を拾い上げて、どんな支援を望んでいるのか、何を必要としているのかを、分析して、それを大きな組織や政府に伝えるというのもあるそうで、昨夜の説明の中で、どんな声が聞こえてきたのか、少し紹介していただきました。


「関心を持ってくれてありがとう!!」


これはそんな村人の声の中で、最も多かったものだそうです。


効率も悪いし、わずかなお手伝いしかできないと思っていた私たちのボランティアも、村人たちをこうやって勇気づけることができると知った時、涙が出てきました。仕事は些細なものかもしれませんが、村人に与える勇気は絶大なものだったのかもしれません。


「何にもお返しはできないけど、ご飯くらい食べていってよ。」


これも被災者の方いただいた声だそうです。

今はボランティアに行くと必ずお昼をふるまってくれます。でも、リーダーがはじめに入ったころは食事はカップラーメンを持参してやっていたそうです。
被災者の方にだって、被災直後はきっとそんな余裕もなかっただろうし、自分たちの食事だって、ままならなかったはずで、ボランティアだって、自分の食事は自分で用意していくのが当たり前で、それが通りなわけですが。
毎日来ては何の文句も言わずに自分の家の瓦礫の撤去をして行ってくれる日本人の若者に対し、お金も財産も失って、何のおかえしもできないと、どうにか感謝の気持ちを表そうとしていただいて、きっとわずかなはずの食料の中から、毎日おいしい料理を作って、食事をふるまってくれるようになったそうです。

食堂で食べれば何十元もするような食事を毎日いただいて、それに見合ったお手伝いができているのか、自信がなくなってしまうような作業しかできなくて、食事をいただくのも申し訳ないと恐縮いたのですが、そういう村人たちのありがたい気持ちから出していただいている食事だと知って、明日からはもっと美味しくいただくことができそうです。

何よりもこういう感謝の気持ちを持っていただいているというのはボランティアの大きなやりがいでもあります。

今でこそ、村人たちは私たちが行くと笑顔で迎えてくれますが、初めはきっとみんな落ち込んでて、笑顔なんてなかなかなかったんじゃないかと想像します。
私はまだほんの何回かしか、被災地に赴いていません。まだ日も浅いのですが、長くやっている人は、村人に笑顔が戻った時、村人から笑顔で迎えらるようになった時、きっと無上の喜びを感じたんじゃないかと思います。この村人の笑顔が一番の報酬だったんじゃないかなと思います。



「神様がやってきたのかと思ったよ。自分たちはまだ見捨てられてないって思って勇気づけられた」



こんな風に思ってくれた村人もいたそうです。被災して、孤独に、悲しみにくれ、絶望に打ちひしがれているところに、 無償で、励まし、元気づけて何一つ文句を言わずに気の遠くなるような作業を黙々とやっては帰っていく。逆の立場になったら、確かにそう感じるかもしれません。孤独で、自暴自棄になって、すべてに対してやる気の起きなくなった所に自分のために一生懸命励まし、一緒に作業をしてくれる人が現れたら、どんなに勇気づけられるでしょうか。


この時、リーダーは
「我々も阪神大震災の時に70以上の国と地域から多くの支援をいただいた。困っている時はお互いさまです」
というようなことを言ったそうです。リーダーは阪神大震災の被災者ではないし、その時からNGOとして、被災地の支援にあたったそうですが。

悲しいかな、今回の地震では、被災地が中国ということで、なかなか募金も集まらずに思うように活動資金も捻出できないそうです。

中国は日本でよっぽど悪いイメージがあるようですが、被災し、困っているは私たちと同じ一般市民です。
悲しみも絶望も、何ら変わることなく被災者を襲っています。
地震から3ヶ月経った今もいまだに生活がままならない、再建、復興のめどが立たない人がたくさんいます。

リーダーはこういう状況があって、まだまだ苦しんでいる人がいることを知ってもらいたいと話します。もちろん、中国に限らず、ミャンマーのサイクロンの被害や日本国内も地震被害も同じように小さな協力でも被災者にとっては精神的に、もしくは物理的に大きな助けになるという事実があるそうです。

今回初めて、こういったボランティアに参加して見ました。

本当はもっと腰を据えて、長期でやろうという気持ちがないのなら、参加してもどういう作業をしたらいいのかもわからないし、1回、2回じゃただただ作業効率の悪いまま終わってしまうのではないだろうか、それならば長くやって、ノウハウを分かっている人に行ってもらった方が被災者のためになるだろうと思っていました。

ただ、今回は瓦礫の撤去ということで、力さえあればお役にたてるのではないかと思っているところに、車の席が空いているということで、僭越ながら私のわずかな力を提供することで、助かる人がいるのならという思いで、参加させていただきました。

一度参加した以上、あまり中途半端にはしたくなかったので、これからもなるべく機会があれば参加したいと考えています。
最近は瓦礫の中から、レンガを再利用するために、レンガに着いたコンクリートをはがす作業もしています。こちらの方はちょっとコツがいるようで、最近は初めに比べて、かなりスピードアップもしてきたので、周りの足手まといにもならず、被災者のお役にたてればいいなと思っています。

しかし、リーダーが一度帰国して、これから、少し違ったプロジェクトを立ち上げるそうで、こうやって旅行者をより集めて、村に出向いて一緒に作業するという形態のボランティアは17日を一応の区切りとするそうで、もうそう長くはないようです。

残念ながら私が参加できるのもあと1回か2回になってしまいました。

あと、自分にできることはこうして書くことくらいしか残されていないようです。時間とともに忘れ去られてしまい、今ではほとんど報道もされないそうですが、被災地で困っている人はまだまだ沢山います。

それを知って、私たちが、そこに関心をもって、支援したいんだということが彼らに伝わるだけでも、彼らの孤独感が払しょくされ、精神的な支えになるものなんだということが今回痛感しました。

まずは多くの人に知ってもらうこと。中国に限らず、多くの災害の被災者に関心を促すことができればという気持ちで、この日記を書いています。一瞬にして家族と、財産を失ってしまった人の心の支えになれるのなら、孤独を吹き飛ばすことができるのなら、元気づけてあげられるのなら、ちょっとしたお手伝いでもいいんではないでしょうか。

中国はメンツばかりを気にする国家で、海外のNGOや海外からの支援が難しい状態です。多くのNGOが締め出しを食らって、多くの団体が手を引いてしまったそうです。今、私達のリーダーが所属するNGO団体もかなり窮屈な中、できる範囲の支援を手探りで、公安ににらまれないように、締め出しを食わないように活動をしています。

リーダーの話では、こういった状況を発信してほしい、と言う一方で、私たちが行っている村の名前は絶対に出さないでほしいと注意を受けました。
そのほか、リーダーの名前、ボランティアの名前、村人の名前も出さないでほしいという話でした。NGO団体の名前もあまり好ましくないようなので、そういった一切の情報はこの日記では伏せておきます。

一昨日も、作業中に公安が来て、私たちのパスポートを控えて行きました。

しかし、こういった動きずらい状況の中でも、どうにか被災者のために活動している人たちがいます。これ以上書くとまた中国政府の批判になってしまいます。前回の「反フリーチベット論」の続きを書きたいと思っているのですが、これはしばらく後にします。

今は、私ができることを精一杯、村のためにできればと思っています。
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by fuji_akiyuki | 2008-08-14 13:54 | 中国4

関心を持ってくれてありがとう!!

いま、成都はシムズゲストハウスにて、ちょっとボランティアを手伝ったりなんかしています。

 中国は今オリンピックで盛り上がっています、開会式、すごかったですね。さすが中国が国の威信をかけただけはあるなぁと感心するのと同時に「なぜ?」という疑問符も浮かんできました。

 覚えているでしょうか。約3か月前、ここ、中国は四川省のブンセンという街を中心に大規模な地震があったことを。

 くしくも、北京オリンピックの開会式、8月8日に初めて被災地を訪れて、被災者のお手伝いをさせていただきました。

 その日のボランティアの内容は被災して、倒壊した家屋のがれきを撤去して、更地にしようというものでした。

 依頼者とは被災した村の中心部で落ち合う予定になっていたようで、そこまで行く途中、被災して、半壊、全壊した家屋、建造物と、家に住めずにテント生活を余儀なくされている人々を横目に見ながら待ち合わせ場所に向かいました。

 家がこんなことになったら、さぞかし落ち込むだろうな、途方に暮れてしまうだろうな。と、そんなことを思いながらも、被災者の人たちはたくましく、テントを張って商売をしたり、自分の家の瓦礫を撤去したりしている姿は、たくましくもあり、頼もしくも見えました。

 依頼者は、二十歳前後の女の子で、待ち合わせ場所に現れた時、おもいのほか小奇麗な格好をして、よく笑う明るい子だったことが大きな救いでした。彼女が被災者であることを忘れてしまうくらいでした。
 
 しかし、彼女の家に到着した時、家は完全に倒壊して、瓦礫の山と化しているのを見た時、やりきれない思いがこみ上げてきました。

 自分の家がこんなになったらどんなに落ち込むだろう。私だったら途方に暮れて、立ち直れないんじゃないだろうか。と。

 依頼者もそのお母さんも明るく、私たちをもてなしてくれました。私が中国語がわからないということもあるのでしょうが、そこには被災者という暗い影は見えないくらいでした。
 彼女たちがどれだけの悲しみや憤り、絶望を背負っているのか、もしくは背負っていたのかは、私にははかり知れませんでしたが、明るくふるまう依頼者たちも、もしかしたら、友人や家族を亡くしているのかもしれません。家は見た通りほとんど跡形もなく瓦礫と化しているわけで、その思う所は想像するしかありませんが、きっと筆舌に尽くしがたいものでしょう。

 とにかく、がれきを前にして、その日できることを全力でしようと決心しました。

 しかし…

 がれきを撤去するにもがれきを置く場所がありません。がれきを運ぶトラックもなければ、家の三方は田んぼや畑で、作物が実り始めた所にがれきを積むわけにもいかないし、もう一つの面は道路で、そこにがれきを置くわけにもいきません。

 結局依頼者の母親の意向により、がれきの約3分の1の部分をとにかく開けてくれ、と言うので、残り3分の2のがれきの上に積み上げることしかできませんでした。
 いずれ誰かがそのがれきを撤去しなければならないはずなので、作業としては2度手間なのかもしれません。がれきは家の敷地の中で移動しただけです。ただ、一時的なものかもしれませんが、私たちが空けたスペースに依頼者が仮設住宅なんかを建てて、少しでも居住環境を良くするのに役立ててくれていただければと、願う限りでした。

何の専門的な知識も技術もない、ノウハウもなければ重機すらない私たちにできることは本当に些細なことしかありません。 車の関係で、一度に被災地に赴けるのはたったの7人だし、自分の無力さを思い知らされて、絶望したり、呆れかえったりしました。こういう微々たる作業がどこまで被災者の方々のお役にたてるのだろうかと疑問を感じることもありました。

ただ、私たちが行かなければ村人はその作業を自分たちでやることになります。同じく人力だし、効率の悪い作業です、しかも私たちの行っている農村部では若者がほとんど街に出てしまって、有力な働き手もいません。村に残っているのはほとんど老人と子供たちばかりです。
でも、その作業をしなければ土地は瓦礫の山のまま新しい家を建てることもできないし、それなら、私たちが行けば、少しでもその作業がはかどるという事実だけが私たちがボランティアに行く意味なのだろうか、と、不毛な思いに駆られながらも、やらないよりもやった方が、怠けるよりも一生懸命やった方が少しでも被災者のためになるのだと思って、何度か、お手伝いをさせていただきました。

そんな思いでいた昨夜、このボランティア活動のリーダーで、活動をマネージして取りまとめている、NGOの方が被災地に最初に入ってから今に至るまで、このボランティア活動がどういう経緯を経てきているのかなど、説明を受けました。

地震の3日後、被災地に赴いたリーダーは、たまたま、地震当日に四川省に程近い雲南省に滞在中だったために、海外の、他のどの団体よりも早く現地入りができたそうです。
そこで見たものは悲惨極まるものだったそうです。がれきの下にまだ多くの被災者が救出されることなく眠っていて、瓦礫の山を失った家族を求めて探し回る人。悲痛な声で、家族の名を叫び続ける人。そして、掘り出された遺体の山。リーダーはこの時、屍臭がしたと言っていました。
動物でも、屍の匂いは嫌悪感のある独特のものがあります。その匂いが町全体に立ち込めていたのでしょうか。人が嗅ぐ人の屍臭の場合は、もっと悲しみとか、絶望なんかも入り混じって、もっと悲惨なものになるのでしょうか。
リーダーの話から想像するしかありませんが、きっと町全体が悲しみと、絶望に包まれていたんだと思います。

リーダーが到着した時には既に地震発生から72時間以上が経過し、生き埋めになったり、がれきの下敷きになったりして、自力で脱出ができなくなった人の生存率が急激に下がった後だったそうです。

もちろん、すでに中国のレスキュー隊は現地に入って、生存者の救出活動に精を出していたわけですが、その活動もすでに無駄な努力に終わってしまうことが多くなる時間です。それでも、あきらめずに活動を続けることによって、救出できる命もあったそうです。わずかでもそういった命がある限り救出活動を続けて、がれきの山に一生懸命呼びかけて、反応の有無を確かめて、どうにか生存者を救い出そうとしていたそうです。

悲しみと絶望に満たされた町で、リーダーが何を感じたのか、想像できるものではありませんが、彼は自分ができることをしようと、ここ、シムズゲストハウスで、旅行者を集めて、がれきの撤去に向かったそうです。

大きな街はすぐに政府や人民解放軍から復興の手が入ったようですが、今、私たちが行っているような、小さな農村部には何の救助の手も入らず、がれきと化した我が家の前で、悲しみにくれ、絶望に打ちひしがれた村人を支援しようと活動を始めたそうです。

中国の農村においても家は財産で、一生ものの買い物です。それが一瞬にして崩れてしまっては、瓦礫を前に途方に暮れるばかりで、再建に向けて動き出すまで立ち直るのは大変なことでしょう。私たちのよく行く村では亡くなった方はいなかったそうですが、被災地には家も崩れて、家族や友人や愛する人を亡くした人もたくさんいます。そんな人たちの絶望や悲しみはどんなに言葉を連ねても表現できないでしょう。

リーダーが最初に入った家の主人も家が崩れ、途方にくれ、瓦礫を前にして、再建どころか、ほとんど寝込んでいたそうです。

家が瓦礫と化したら、もう新しく建て直すしかないとしたら、誰も手伝ってくれないとしたら、一つ一つ、自分でやるしかありません。まずは瓦礫を撤去しなければ土地がありません。
きっと頭では分かっていても、どこから手をつければいいのかわからない。途方に暮れて、何をしたらいいのかわからない。おびただしい量のがれきはいつになったら無くなるのなるのだろう。瓦礫がなくなったところで、家の再建にはいくらのお金がかかるのだろう。

こんな不安材料だらけの再建への道を前にして、地道にがれきの撤去に手をつけられる人はどれだけいるでしょうか。自暴自棄になって、何もかもが嫌になって、寝込んでしまう方が、自然な反応かもしれません。

そこにリーダーが日本人の若者をつれて、
「こんなになって大変だよね。おじさん、寝ててもいいから、おれたちが瓦礫の撤去手伝うよ。」
と言って、瓦礫の撤去を始めたそうです。

気の遠くなるような長い道のりではありますが、リーダーたちは瓦礫の撤去から始めて、2日、3日と経つうちにがれきは無くなっていって、家の主人も元気づけられたそうで、みるみる回復していったそうです。

孤独に放っておかれたら、村人たちの絶望はどんなに深いものだったのでしょうか。
誰かが気にかけてくれる、わずかでも助けてくれる。そんな思いが村人たちを勇気づけて、復興に向けて立ち上がる大きな礎となったそうです。

リーダーのNGO活動の大きな目的の一つとして、村人達の個々の小さな声を拾い上げて、どんな支援を望んでいるのか、何を必要としているのかを、分析して、それを大きな組織や政府に伝えるというのもあるそうで、昨夜の説明の中で、どんな声が聞こえてきたのか、少し紹介していただきました。


「関心を持ってくれてありがとう!!」


これはそんな村人の声の中で、最も多かったものだそうです。


効率も悪いし、わずかなお手伝いしかできないと思っていた私たちのボランティアも、村人たちをこうやって勇気づけることができると知った時、涙が出てきました。仕事は些細なものかもしれませんが、村人に与える勇気は絶大なものだったのかもしれません。


「何にもお返しはできないけど、ご飯くらい食べていってよ。」


これも被災者の方いただいた声だそうです。

今はボランティアに行くと必ずお昼をふるまってくれます。でも、リーダーがはじめに入ったころは食事はカップラーメンを持参してやっていたそうです。
被災者の方にだって、被災直後はきっとそんな余裕もなかっただろうし、自分たちの食事だって、ままならなかったはずで、ボランティアだって、自分の食事は自分で用意していくのが当たり前で、それが通りなわけですが。
毎日来ては何の文句も言わずに自分の家の瓦礫の撤去をして行ってくれる日本人の若者に対し、お金も財産も失って、何のおかえしもできないと、どうにか感謝の気持ちを表そうとしていただいて、きっとわずかなはずの食料の中から、毎日おいしい料理を作って、食事をふるまってくれるようになったそうです。

食堂で食べれば何十元もするような食事を毎日いただいて、それに見合ったお手伝いができているのか、自信がなくなってしまうような作業しかできなくて、食事をいただくのも申し訳ないと恐縮いたのですが、そういう村人たちのありがたい気持ちから出していただいている食事だと知って、明日からはもっと美味しくいただくことができそうです。

何よりもこういう感謝の気持ちを持っていただいているというのはボランティアの大きなやりがいでもあります。

今でこそ、村人たちは私たちが行くと笑顔で迎えてくれますが、初めはきっとみんな落ち込んでて、笑顔なんてなかなかなかったんじゃないかと想像します。
私はまだほんの何回かしか、被災地に赴いていません。まだ日も浅いのですが、長くやっている人は、村人に笑顔が戻った時、村人から笑顔で迎えらるようになった時、きっと無上の喜びを感じたんじゃないかと思います。この村人の笑顔が一番の報酬だったんじゃないかなと思います。



「神様がやってきたのかと思ったよ。自分たちはまだ見捨てられてないって思って勇気づけられた」



こんな風に思ってくれた村人もいたそうです。被災して、孤独に、悲しみにくれ、絶望に打ちひしがれているところに、 無償で、励まし、元気づけて何一つ文句を言わずに気の遠くなるような作業を黙々とやっては帰っていく。逆の立場になったら、確かにそう感じるかもしれません。孤独で、自暴自棄になって、すべてに対してやる気の起きなくなった所に自分のために一生懸命励まし、一緒に作業をしてくれる人が現れたら、どんなに勇気づけられるでしょうか。


この時、リーダーは
「我々も阪神大震災の時に70以上の国と地域から多くの支援をいただいた。困っている時はお互いさまです」
というようなことを言ったそうです。リーダーは阪神大震災の被災者ではないし、その時からNGOとして、被災地の支援にあたったそうですが。

悲しいかな、今回の地震では、被災地が中国ということで、なかなか募金も集まらずに思うように活動資金も捻出できないそうです。

中国は日本でよっぽど悪いイメージがあるようですが、被災し、困っているは私たちと同じ一般市民です。
悲しみも絶望も、何ら変わることなく被災者を襲っています。
地震から3ヶ月経った今もいまだに生活がままならない、再建、復興のめどが立たない人がたくさんいます。

リーダーはこういう状況があって、まだまだ苦しんでいる人がいることを知ってもらいたいと話します。もちろん、中国に限らず、ミャンマーのサイクロンの被害や日本国内も地震被害も同じように小さな協力でも被災者にとっては精神的に、もしくは物理的に大きな助けになるという事実があるそうです。

今回初めて、こういったボランティアに参加して見ました。

本当はもっと腰を据えて、長期でやろうという気持ちがないのなら、参加してもどういう作業をしたらいいのかもわからないし、1回、2回じゃただただ作業効率の悪いまま終わってしまうのではないだろうか、それならば長くやって、ノウハウを分かっている人に行ってもらった方が被災者のためになるだろうと思っていました。

ただ、今回は瓦礫の撤去ということで、力さえあればお役にたてるのではないかと思っているところに、車の席が空いているということで、僭越ながら私のわずかな力を提供することで、助かる人がいるのならという思いで、参加させていただきました。

一度参加した以上、あまり中途半端にはしたくなかったので、これからもなるべく機会があれば参加したいと考えています。
最近は瓦礫の中から、レンガを再利用するために、レンガに着いたコンクリートをはがす作業もしています。こちらの方はちょっとコツがいるようで、最近は初めに比べて、かなりスピードアップもしてきたので、周りの足手まといにもならず、被災者のお役にたてればいいなと思っています。

しかし、リーダーが一度帰国して、これから、少し違ったプロジェクトを立ち上げるそうで、こうやって旅行者をより集めて、村に出向いて一緒に作業するという形態のボランティアは17日を一応の区切りとするそうで、もうそう長くはないようです。

残念ながら私が参加できるのもあと1回か2回になってしまいました。

あと、自分にできることはこうして書くことくらいしか残されていないようです。時間とともに忘れ去られてしまい、今ではほとんど報道もされないそうですが、被災地で困っている人はまだまだ沢山います。

それを知って、私たちが、そこに関心をもって、支援したいんだということが彼らに伝わるだけでも、彼らの孤独感が払しょくされ、精神的な支えになるものなんだということが今回痛感しました。

まずは多くの人に知ってもらうこと。中国に限らず、多くの災害の被災者に関心を促すことができればという気持ちで、この日記を書いています。一瞬にして家族と、財産を失ってしまった人の心の支えになれるのなら、孤独を吹き飛ばすことができるのなら、元気づけてあげられるのなら、ちょっとしたお手伝いでもいいんではないでしょうか。

中国はメンツばかりを気にする国家で、海外のNGOや海外からの支援が難しい状態です。多くのNGOが締め出しを食らって、多くの団体が手を引いてしまったそうです。今、私達のリーダーが所属するNGO団体もかなり窮屈な中、できる範囲の支援を手探りで、公安ににらまれないように、締め出しを食わないように活動をしています。

リーダーの話では、こういった状況を発信してほしい、と言う一方で、私たちが行っている村の名前は絶対に出さないでほしいと注意を受けました。
そのほか、リーダーの名前、ボランティアの名前、村人の名前も出さないでほしいという話でした。NGO団体の名前もあまり好ましくないようなので、そういった一切の情報はこの日記では伏せておきます。

一昨日も、作業中に公安が来て、私たちのパスポートを控えて行きました。

しかし、こういった動きずらい状況の中でも、どうにか被災者のために活動している人たちがいます。これ以上書くとまた中国政府の批判になってしまいます。前回の「反フリーチベット論」の続きを書きたいと思っているのですが、これはしばらく後にします。

今は、私ができることを精一杯、村のためにできればと思っています。
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by fuji_akiyuki | 2008-08-14 13:45 | 中国4