カテゴリ:チリ・アルゼンチン( 31 )

アルゼンチン人は赤ワインがお好き。

アルゼンチンの通貨はペソで、昔は$1us=1ペソの固定レートで、やたらに物価が高かったのですが、そんなことやってたらいつか経済崩壊するだろうなって思ってた矢先に見事に崩壊したんですよね。

で、いまは$1us=4ペソくらいで、ペソの下にセンターボってのがあります。100センターボが1ペソです。セントみたいなものです。



宿から歩いて3分くらいの所にちょっとしたスーパーマーケットがあります。
なんか知らないけど、アルゼンチン、スーパーが少ないんですよね。
メンドーサは結構大きい街のくせして、散歩して歩いてみても本当にスーパー見ないんですよ。
だから、近くに一軒あるのは助かるんですけど、このスーパーがまたいけてません。
100ペソ札も50ペソ札も受け取ってくれないし、シエスタだ、日曜日だとすぐに店を閉めるし。肉は殆ど変色して新鮮さに欠けるし、野菜は売ってません.
何で稼ぎを自分から拒否するような営業形体なのか知りませんが、近くにもう少しまともなスーパーがあれば金輪際行きたくないようなスーパーなんです。
でも、残念ながらアルゼンチンにはシエスタをしないスーパーなんてほとんどないし、近くにはそのスーパー以外今のところ見つからないんですよね。
こうやって選択肢がないから仕方なくそこで買うってかんじで、お客が来るからどこのスーパーもどうにかやっていけてるんだろうなって感じがします。
メンドーサはちょっと大きな街なので、外資系の大きなスーパー、カルフールが1km位歩いたところにあります。
で、もちろんシエスタはしないし、日曜も開いてるし、高額紙幣も受け取ってくれます。こういうスーパーが増えたらアルゼンチンのスーパーは全部潰れるだろうなって思います。

そんないけてないスーパーですが、一つだけいいところがあります。
それはワインがやたらに安いんです。
っていうか、多分安い銘柄のワインを置いているというか。
1リットルの紙パック入りのワインなんですが、日本にもある牛乳パックなんですけど、一般的な上が三角屋根みたいなった細長いやつじゃなくて、ずんどうで、長期保存可能って触れ込みの方です。そういう形の紙パックに入ったワインがどこに行っても一番安くて、探すと1リットルでだいたい5ペソくらいで見つけることができます。

でもこのスーパーの一番安いやつは、白で3.99ペソ、ロゼが4.99ペソで特価になってるんですよ。何故か赤は値引きされてなくて5.49ペソ。

アルゼンチンのワインはどこの銘柄もだいたい赤、白、ロゼくらいはそろえていて、だいたいどれを見ても赤のほうがほんのちょっと高かいか、同じなんです。
1リットル5ペソくらいの安いワインになると赤と白の差は50センターボもないくらいなんですけど、白の方が好きな私としてはちょっと得した気分になるわけです。

でもこのスーパーで一番安いのは白ワイン。特価でたったの3.99ペソ。
そして赤ワインは値引きされておらず5.49ペソ。
その差は1.5ペソで、もともと4ペソだの5ペソだのの値段に対してはバカにできないと思うんですけど、赤ワインが飛ぶように売れていて、白はたくさん売れ残ってるんです。

そんなに安売りしてもやっぱり白は買わないで赤を買うんですね、アルゼンチン人って。

ただ、左から白、赤、ロゼの順に並んでいる棚の下に書かれた値札はなぜか赤、白、ロゼの順になってて、
白ワインの下に"赤ワイン、5.49ペソ"って値札があって、
赤ワインの下に"特価!!白ワイン、3.99ペソ"って値札がありました。
[PR]
by fuji_akiyuki | 2011-01-17 04:01 | チリ・アルゼンチン

アルゼンチン医療事情

要するにですね。タダより高いものはないってことなんですけど。
事件当日(4日)のことは"事件概要"に書いたとおりで、本当に良くしてもらえて警察と病院には大感謝だったのですが。。。
翌日(5日)、警察が迎えに来てくれて病院に連れていくという約束でした。
宿の人にも8時から11時に迎えに来ると言い残していったにもかかわらず。
来ない、待てど暮らせど、全く来ません、午後1時まで待って全然ナシのつぶてなので、自分で勝手に病院へ行ってみました。
前日(4日)診てくれた医師がなんかメモを書いて説明してくれたところによると、
5日は警察と一緒に来て破傷風の予防接種を打って、指の方の次回の予約をしよう。
数日後にレントゲンを撮って骨がずれてなければ手術は必要無いとだろうということでした。
渡してくれたメモは二枚で、一つは破傷風の予防接種のことで、もう一つは良く分からないけど、多分指に関係することが書かれているようでした。
つまり、"この患者は怪我をしたので破傷風の予防接種が必要です"って書かれたメモと多分"この患者は指の骨を骨折してます"みたいなことが書かれたメモを渡されました。
でも病院内はほとんど英語を解する人がいないし、ひとりで行っても事情の説明のしようがないので、警察が来てくれるのを期待していたし、そう言い残してい去っていったはずの警察が全く来ませんでした。

で、とりあえずメモは持ってるので、まあ、これを見せればどうにかしてくれるだろう。全然相手にされなかったらもう一度警察に行ってみようと思ってひとりで病院に行ってみました。

なぜ先に警察に行かなかったかというと、病院が歩いて2分、目と鼻に先にあって、警察のオフィスはどこにあるのかよく分からなくて調べなければいけなかったから面倒だなって思ったからなんですけど。

で、病院で訳も分からず受け付けの人にメモを見せると、破傷風の注射はいとも簡単に打ってくれて事なきを得たわけですが、指の方はどうすれば良いのか分からず、メモにあったサインを指さしてこの先生に会いたいんですけどと言うことを伝えると。
月曜日じゃないとこの先生は来ないから次の月曜日、朝7時に来いっていわれました。
事件があったのは4日火曜日、病院にひとりで行ったのがその翌日の5日水曜日で、次に来いと言うのが10日月曜日って。。。
確かにその先生は自分はこの病院で働いてない。緊急医療でここに居るんだみたいなことはいってたからもしかしたらそういう変則的なシフトなのかなぁと思ってとりあえずその日は次の月曜日に来るということで帰ったんです。


で、10日月曜日、朝から病院に行ってまた案内みたいなカウンターの人にメモを渡してみると
この列に並びなさいといわれて窓口の前にできた長い行列に並ばされました。
窓口は患者の予約を取ってあっちに行けとかこっちに行けとか、患者を振分けているようでした。
ああ、これで自分も普通の患者と同じように振分けられるわけだな。前回は救急だったからこれで良いのかなって思っていました。
列は2つあって、案内みたいな人が並べといわれた方に並んでいたのに、自分の番が来てメモを見せた途端、もう一つの列に並べっていわれました。
なんだそれ、今案内にこっちに並べっていわれたのに。って不満を言ったところでストレスが溜まるだけなので我慢して、もう一つのさっきの列より倍くらい長い列に並び直しました。
患者を振りわけるだけだからそんなに時間はかからないようでした。
みんなそれぞれ私と同じメモをてにして、窓口で予約表みたいな物を渡されてあっちに行け、こっちに行けと指示を受けてます。
で、私の番が来たのですが、今度はいきなり20日の7時30分に来い、と言われて予約表を渡されました。チーン

事件から16日がすぎて、ようやく2回目の診療になりそうです。
警察は来ないし、いつまで立っても医者には診てもらえません。
もうなんかどうでもいいような気がしてきました。

ただ、過去骨折歴2回、今回で3回目となるベテランとしては骨折なんて医者に見てもらったところで固定する以外にすることなんてないってことは知っているので、心配なのは骨がズレてないかどうかなんですよね。
だから早めに2枚目のレントゲンを撮ってもらってズレてない事を確認したかったのですが。。。
まあ、事件からすでに10日、あれだけ力いっぱい引っ張って、多分麻酔がなければとんでもない痛みを伴って直した骨の位置がズレるようなことがあればきっとそれなりの痛みを伴うだろうし、そんなに激しく何かにぶつけたりもしてないし、折れた部分に激しい痛みを感じたこともなかったから大丈夫だろうと思っているんですけど。

とにかく 20日もう一度病院に行ってみるつもりです。


アルゼンチンの公立の医療機関は医療費が無料だそうなんですけど、それだとなんでもない人も病院に押し寄せるんじゃないかなぁって思ってたら、やっぱりそういう現実があって、なかなか診てもらえないそうです。
しかも設備や医薬品も乏しかったりするようで、お金のある人は私立の病院に行くそうです。
タダで、貧しい人でも病院に行けるのはいい制度だけど、どうでも良いことで病院に押し寄せるようになると本当に治療を必要としている人がなかなか治療を受けられないという事態も出てくると思うんですよね。

自賠責ってことでほんの少しでも取るようにした方がいいのかと考えると、今度はそれを払うのも躊躇してしまうような貧しい人は症状が相当悪化するまで病院に行かなかったりするかもしれないし。

一長一短かもしれないですね。

まあ、私が考えることじゃないんですけど。
[PR]
by fuji_akiyuki | 2011-01-16 07:19 | チリ・アルゼンチン

違うんだよ!!

強盗に遭い、病院に行って警察に行って、ようやくホステルに2,3泊して少し落ち着いた頃でした。
オーストラリアに住んでいるという白人のおじさんがにこやかにこんな話をしてきました。

「私も何度かスリやケッチャップ強盗にあったけど、それはお金を取りやすいポケットに入れておいたのがいけなかったんだよ。我々外人はそれだけで彼ら(強盗を示すものだと解釈したのですが)のまえににんじんをぶら下げれているようなものなんだ。大事なものはしっかり肌身離さず持ち歩いて隙を作らないようにしなければ。そうでなければ盗まれてもそれはあなたの落ち度(your fault)なんだよ」









違うんだよ!!



こういうこと、わけしり顔で、分別くさく、説教じみて、まるで出来の悪い生徒に「地球は丸いんだよ、当然だろ!?」みたいにとくとくと言って聞かせる奴なんて糞喰らえなんだよ!!
全然違うよ!!大間違いなんだよ!!




どんなことがあったってさぁ、盗む方が悪いんだよ。100パーセント!!
だます方が悪いし、殺す方が悪いんだって!!

もし、深夜に泥酔して道端で寝込んじゃって財布をすられたって、すられた方は、ま、あんまり利口とはいえないけど、悪くないんだって、悪いのは絶対100パーセントすったほうなんだよ。

隙とか、落ち度とかの問題じゃないんだって、人のものは盗んじゃいけないんだって!!当然だろ!?
それともお前んとこじゃ隙があったら人のものは盗ってもいいのか!?

って、言ってやりたかったんですけどね。
そんなこと苦労してどこの馬とも知れない同じホステルで顔を合わせたというだけのおじさんと英語で議論したって疲れるだけで、何の得にもならないし、おじさんに悪意もなければ私を責めてる風でもなくて、蒸し返すのも面倒なのでやめておきました。

でも、こういうこと、良く言われますよね。
自分の身は自分で守らなければならないとか、油断や隙があるから狙われるんだとか。

長いこと旅行してると、スリや盗難や、強盗にあった人に実際に会うこともあるし、そんな話を聞いたりブログやミクシーの日記で目にしたりします。

 で、そういう人を前にして、こんな所に財布を入れたから悪かったんだとか、バスターミナルでちょっと荷物から目を離したからいけなかったんだ。みたいな被害者の落ち度を指摘する人がいたり、被害者本人も「僕が悪かったんです」とか、「私がいけなかったんです」とか、「勉強になりました」みたいに反省しちゃったりしてるけど。

 それも確かに一理ある、というか、なるべく被害に遭わないために出来ること、旅人の処世術ではあると思うんですが。

なんか、その前に大事なこと忘れてません?

東から昇って西に沈む太陽を見ているうちに地球が動いていることを忘れて本当に太陽が動いてると信じ込むように、この処世術を重んじるばかりに”盗ろうとする方が悪い”という常識から、いつの間にか”処世術を怠った方が悪い”という間違った(少なくとも私は間違ってると思いますが)常識の方が幅を利かせてきてるように感じます。前述のおじさんのように疑いもなく信じてはばからない人もいるし。コペルニクスも嘆いちゃいますよ。
特に長期旅行者の中に、旅に長けたものの間にこっちが常識として広がってるように感じます。

 過去にイラクやアフガニスタンに旅行者が行って殺されたという事件がありました。日本では「そんな危ないところに行くから」と非難されていたようですが、悪いのは旅行者じゃないんです。確かに軽率だったかもしれません、でも悪いことなんて何にもしてないんですよ、絶対に悪いのは殺した方なんですよね。どう考えても。

つまり、こんな考え方が常識みたいになってること自体が犯罪を助長してるんじゃないかって思うんです。
隙を作った方が悪い。油断した方が悪い。
そんな常識、糞喰らえなんです!!こんな考え方じゃ、犯罪者に寛容になってしまうじゃないですか。
盗った方が悪いし、傷つけた方が悪いし、殺した方が悪いんですよ。絶対に。100パーセント!!

そして大人になってもそんなことすら分からないで人のものを盗ろうとするような奴なんてこの世にいりません。

今回、悪意を向けられ、暴力を振るわれ、踏みにじられる者の無念さとか、悔しさとかを噛みしめることになりました。死刑って有って然るべきだなって思いました。ま、今回は捕まっても絶対に死刑になんてならないですけど。
 
 もし私が車に乗って強盗事件の目撃者になったら犯人をひき殺してでも捕まえてやるって心に誓いました。こんな悪意は許しちゃいけないんです。
私は、旅行をするうちにいつの間にか悪意には抵抗して、刃向かうんだって気持ちになってました。
お釣りを返そうとしない悪意、外人料金を設定して高くとろうとする悪意、国境で何もして無いくせにやたら人を待たせようとしたり、ワイロを払わせようとする悪意。消極的だけどとんでもなく客が並んでるのに新しくレジを開けようとしない悪意・・・というか怠慢。各種窓口の不誠実で不案内な対応とか、悪意を感じるものにはどうしてもニコニコ笑ってこういうこともあるよ。なんていい子にはなりきれませんでした。
 どちらかといえば悪意に曝されたら絶対に抵抗して、刃向かって、相手に不快であることを伝えてきたつもりです。

 でも、今回私に向けられた悪意は強烈で衝撃的でした。

だから、やめようよ、悪意を許すような常識。
隙を作ったから悪いんじゃない。油断してたから悪いんじゃない。違うんだよ!!
盗るほうが悪いんだよ!傷つける方が悪いんだよ!!殺す方が悪いんだよ!!当然だろ!?

 
 
[PR]
by fuji_akiyuki | 2011-01-12 13:37 | チリ・アルゼンチン

事件概要

バケツをひっくり返したような大雨に打たれながら、無残に倒れた権兵衛(自転車の名前)を起こすことも出来ず、ただ、絶望に打ちひしがれながら、立ち尽くしていました。
止まること無く流れ続ける頭からの出血は私に死への恐怖すら与えました。
ここで旅は終わるのか?
あと3300km走りきれないのか?
人生すらも幕を下ろすのか?
また中途半端に?


 その日の始まりはメンドーサまで後80km、チリからアルゼンチンへ、年末年始を休まずに峠を越え、ちょっと大きな町、サンファンに泊まらずにスルーしたことによって、予定より一日早くメンドーサに着けそうでした。
しかし、その日は朝から空一面雲で覆われ、強い向かい風の中、今日は辛い一日になりそうだと思いつつ、テントをたたんでメンドーサに向けてペダルを踏み出しました。
向かい風のせいで思うようにスピードが出ず、朝のうちは10km/hもでませんでした。
やっぱり今日はちょっと辛いけど、80kmだからどうにかなるだろう、ととにかく風に向かって悪戦苦闘していました。

 何度目かの休憩で、ようやくメンドーサまで25kmというところのガソリンスタンドまでこぎつけました。
ガソリンスタンドでしばらく休んで出発すると、ちょっと雲行きが怪しくなってました。

 
後20kmか15km辺りから雨がぱらつき始め、だんだんと雨脚が強くなってきました。
ああ、いやだなぁもう少しなのに、誰か乗らないかって声かけてくれないかなぁ
なんて思ってました。
まわりには雨宿りが出来るようなところもありません。
メンドーサまで後10km、左手に空港が見えてきました。
その頃には雨脚も強く、強風に吹かれて横殴りの雨になっていました。
空港を越えた辺りにいくらか建物が見えました。
空港を越えたら雨宿りのできるところも見つかるかも。
10km行くにはこの調子だと1時間はかかるし、とりあえずは雨宿りに出来るところを見つけよう。
っていうか、誰か乗せてくれないかなぁ、
と思っているところでした。

空港を越えた最初の交差点はT字路で左に曲がると空港ターミナルに続いてるようでした。
そのT字路の向こう側を2人の若者が木の棒を手になんかのろのろと道路を横断していました。

私が通りかかるとその調子でのろのろと車道に出てきて、私の行く手にフラフラと出てきます。
その様子は行く手を阻もうという意思があるというよりはむしろ酔っ払って、間違って車道にフラフラと出てしまったという感じでした。
しかし、彼らには私を襲おうという意思があったのです。

なんだこいつら、気持ち悪い。
と思ってどうにか二人を避けて行きすぎたときでした。

バシン!!
右側頭部に激痛を感じました。
え!?一体何??

と思ったときには第2の衝撃をまた同じ右側頭部に感じました。
あいつらか、暴漢か?ひどいことするなぁ、耳までキーンとするよ。
でも頭を強打すると星が見えるとか言うけど全然見えないけどなぁ、
とにかく逃げよう

ペダルに力を入れて、逃げようと試みたのですが、木の棒でやたらと殴られて堪らずに道路の真ん中で転んでしまいました。
転倒した瞬間はこのまま袋叩きに遭うのだろうかという恐怖に身の凍る思いでしたが、一度倒れると後に続くと予想された攻撃が襲って来ません。
ふと見ると二人の若者のうち一人が権兵衛を引きずって持っていこうとしている最中でした。
ただ人に暴力を振るうだけが目的の暴漢ではなく、強盗だと気がつきました。

そのとたん、殴られたことにも、権兵衛を盗もうとする二人にも言いようの無い怒りが沸々と湧き上がってきました。
権兵衛は確実に60kg以上あります。自転車は車を転がすもので、引きずって奪おうなんて不可能なのに、引きずろうとしているおろかな姿を目の当たりにして、飛んでもなく頭の悪いやつらだと思いました。
白昼堂々と、しかも結構交通量のある幹線道路で自転車旅行者を襲おうなんて考える自体あんまりにもあさはか過ぎます。
相手がバカだと思うとその愚鈍でずさんな犯行の被害に遭った屈辱と悔しさが更に怒りを抑えがたいものにしました。

片手で権兵衛を引きずるのは無理だと思ったらしく、私が見たときには武器の木の棒を捨てて両手で権兵衛を引きずろうとしていたので、私は捨てられた木の棒を拾い上げて殴りつけるべく、それこそ殺してやろうという、確実な殺意を持って襲い掛かりました。
しかし、襲いかかってきた私を見た若者二人は一目散に逃げて行ってしまいました。

少しだけ追いかけようかと思ったのですが、手負いの自分の状況に思い至り、立ち止まり、周りを見回してみました。
片側2車線道路の真ん中に権兵衛は無残に倒れ、後ろから着た何台かの車が立ち往生していました。
こいつら、みんな見てたのに助けてくれなかったのか、何で犯人を車で追ってくれないんだろう、ひき殺してもいいから、いや、むしろひき殺してくれればいいのに。
こうやって突然見ず知らずの人の悪意に曝され、突然の暴力によって傷つけられることがこんなにも悔しいなんて思ってもみませんでした。

そして、痛みに頭を抑えた手についた真っ赤な血。何時殴られたのか、激痛を感じる右手の人差し指は無様にひしゃげ、腫れ上がり、確実に骨が折れていることが分かりました。
少しずつ冷静になってくると自分の身体の被害状況を確認し始めました。
この二つ意外には大きな怪我は無いようでした。でも、指の痛さは尋常ではなく、権兵衛を起こすことも出来ません。
頭の傷は何時までも血を噴き出し、止まる気配を見せません。降りしきる雨で血が固まらないのかもしれません。
頭の方は痛みはそれほどでもなかったのですが、止まらない血は私に恐怖を与えました。

 無残に横倒しになった権兵衛、何度ぬぐっても真っ赤に染まる左手、眉を伝って目の前を零れ落ちる血、そしてその全部にたたきつけるように、あざけ笑うように、容赦なく冷たい雨が濡らしていきます。
感じたものは深い絶望でした。

後ろから来た車のうち、一台が携帯で警察に連絡をしてくれたようです。
道路の真ん中で待つようにいわれたのですが、降りしきる雨は雨脚を強めて私の体温を奪っていきます。

 道路の真ん中にたっていることが出来ず、周りを見回して、道路わきにキオスクを見つけ、キオスクは閉まっているようでしたが、その店先に風にたなびく布製の庇を見つけました。
周囲に雨をしのげそうなものは他には見当たりませんでした。
私は寒さでたまらなくなってその庇を目指して走りました。その庇は風にたなびき、もしかしたらその下に入っても全然雨は防げないかもしれません、どうみても風は防いでくれそうにありません。
溺れる者は藁をもつかむ、そんな藁みたいに頼りない救いでした。でもその時の私には見渡す限り唯一の藁にすがるしかありませんでした。

 ただ、幸運だったのは藁だと思った救いがちょっとした大型船くらいに化けてくれたことでした。
キオスクを併設している家のおばさんが救いを求めて走る私を見てキオスクのすぐ隣の扉から私を家の中に招き入れてくれました。
暖かい家の中に入れてもらって、着替えを貸してくれて毛布を上から掛けてくれました。
救急車を呼んでくれて、血だらけの頭をタオルでぬぐってくれ、寒さに震える腕をさすってくれました。
人のぬくもりがこんなに暖かいと(比喩ではなく)感じたのも初めてでした。
程なくして自転車もその家に運び込まれて来ました。

「今コーヒーを入れるからね」
と、コーヒーを待っている間に救急車がやってきたので、結局コーヒーは飲み損ねてしまったのですが。

 突然ですが私はレスキューダイバーの資格を持っています。
スキューバダイビングのときに不測の事態が起きた場合、いろいろと自分や人を助けたりするための講習を受けます。
そのレスキューダイバーの講習には緊急事態が起きたときの初期対応みたいな講習(E.F.R. Emergency First Response っていうんですけど)も含まれていて、そこでこの3つが全てはいならこいつはとりあえずすぐに死ぬことは無いという条件を習いました。

1意識がある。
2呼吸がある。
3大量の出血は認められない。

このうち一つでもいいえなら、もしかしたら死ぬかもしれないってことになるわけですが、私はこの3番に当たるのだろうかとこの出血は大量といえるのだろうかと判断がつかづに恐怖におののいていましたが、家の中に入って雨に打たれなくなると出血はかなり少なくなったようで、救急車が到着した頃にはもう滴り落ちることは無くなっていました。

 ただ、頭を強打した場合、その日は大丈夫だと思っていても翌日以降に容態が急変するとか、そんな話も聞くので、心配は残っていました。
でも、救急車に乗ったとき、救急医療?のおばさんがガーゼにジェル状のアルコールをたっぷり染み込ませて傷口に当てながら
「目まいはあるか?」「耳は違和感が無いか?」
というようなことを聞いてきました。
ああ、つまりこういう症状があるとやばいわけだ。
目まいは全く無いし、殴られた瞬間こそ耳はキーンとしたけど今は大丈夫だなぁ、
そうかんがえると、明日死ぬことも無いのかなぁ、と少し安心しました。

生涯2度目の救急車の中ではベッドで寝かされることはなく、イスに座らされて簡単な治療を受けながら病院へ向かいました。
ちなみに初めて救急車に乗せられたのは16のときで、残念ながら意識がなかったので記憶はありません。飲みすぎでした。

 死の恐怖が一応去ると今度は今後の旅の予定と指の骨折の具合と、病院での治療とその費用が気にかかりました。
人生で過去2回骨折は経験があるので、痛さからいくと、多分頭の方は骨には異常はなさそうな気がしました。
指は角度がおかしかったので確実に骨折しているのは見て取れたのですが、これが元に戻るのかどうかは心配でした。
骨折してると約一ヶ月はギプスで患部を動かすことが出来ません、指を動かさずに自転車を運転することはちょっと難しいし、もちろんテント立てたり、自炊したりも無理なので約一月の足止めは余儀なくされます。
折れ方によっては手術が必要だったり、治っても上手く動かなかったりすることもあるということも知っていました。
とにかく少なくともひと月動けなくなりそうだということは分かりました。ギプスが取れてもひと月固定されていた指が動くようになるまではリハビリも必要です。
その他、左の脇の下のちょっと下あたりと左の腿と腰が比較的強く痛むのと右ひざ、左のスネ、左の肘が少し痛むのが分かりました。
でも頭と指意外は大した傷ではないなという直感もありました。
ひと月+リハビリ期間動けなくなると今シーズン中にウシュアイアまで行くのは難しいだろうということも気にかかりました。
一年延長するなら予算も問題が出てくるし、第一この傷の治療費はどうなるんだろう、保険なんてとっくの昔に切れてなくなっています。

病院に着くまでにいろんな心配が頭の中を駆け巡りました、そしてこれだけ考えられるなら頭を殴られたわりにはそれほどバカにもなってないだろうと考えることが出来ました。この思い付きは私に少し安心感を与えてくれました。

病院に着いて、当然歩くものだと思っていたら車椅子といか、キャスター付のイスに座らされての院内の移動となり、これは非常に楽ちんでした。

 それでも色々待たされたり、質問されたりが最初でなかなか治療には移行しませんでした。
身元を聞かれ何があったのかを訊かれ、最初はスペイン語で全く話が通じなくて、英語がしゃべれる人が来て同じ事をまた訊かれました。
警察の簡単な事情聴取があり、ようやく治療が開始されました。
 最初はレントゲンで殴られた頭と指の写真を撮りました。

レントゲン写真を前にして医師の診断を言い渡されました。
レントゲン写真に映し出された私の指の骨は無残に折れてあるべき位置から完全にずれていました。
指の具合はあまり芳しくない、このままだと骨がくっついても指は動かないだろう。
治療には手術が必要だ。すぐに日本に帰るなら日本で手術することも出来る、日本には何時帰る予定だ?
と訊かれました。

まだ日本に帰る予定は無いけど、手術なんてしたらきっと治療費も馬鹿にならないし、それ次第ではもう旅なんて続けられないかもしれないから
その質問に即答することは出来ませんでした。
 逆に、ここで手術をするならいくらくらい掛かるのか?と訊いてみました。

 この病院では手術できない、これを治すためには私立の手の専門の病院に掛かる必要がある。費用は病院次第だが、1000ドルくらいは掛かるんじゃないだろうか。
という話でした。

 今いる病院は公共のホスピタルセントラルというところらしく、すぐ近くの裏手にその手の専門の病院があるらしいことも言ってました。

とにかく、これから麻酔を打って痛みの無い状態にして指を引っ張り、骨を入れなおしてみる。これだけずれてるとあまり見込みは無いがうまく行けば手術は避けられるかもしれない、もう一度レントゲンを撮ってダメならすぐにでも手術の予約を入れよう、一週間以内に手術が受けられるようにしよう。
頭の方は骨にも異常は無いし、後で縫っておこう。
と医師がいいました。

 医師の言う指を引っ張るという荒療治に手術回避の一縷の望みを託すよりありませんでした。

指に打つには多すぎるだろうと思われる大量の麻酔液を注射器に入れ、そうでなくても腫れ上がっている指に骨まで深く突き刺し、薬液を注入しました。
指は更にふくらみ内側からはじけ飛んでしまうんじゃないだろうかと思うほどふくらみ痛みを感じました。
注射のあと、2,3分で、医師が治療を開始すると言い出しましたが、まだ指の感覚はあり、このままやられたら失神するほど痛いんじゃないかという恐怖で待ってくれ、まだ感じるんだけど。と訴えてみると皮膚では感じてももう骨には麻酔が効いてるはずだ、とにかくやってみよう。
といって、力任せに私の指を引っ張り始めました。確かに不思議と全く痛みを感じません。指は力いっぱい引っ張られてそれは感じてるんだけど、折れて激痛をともなっていたはずなのにこんなに手荒く扱われても全然痛みを感じないのはちょっと不思議でした。

その後、別の医師が頭部の縫合をしてくれたのですが、ちょっと麻酔の効きが悪かったらしく縫われるたびにチクリチクリと痛い思いをしました。

 もう一度撮ったレントゲンを見た医師に言わせると、パーフェクトだそうで、確かにあれだけずれて無残に折れていた指の骨が今ではどこが折れているのか分からないほどきれいに戻っていました。
これで手術は一応今の時点では必要ないといわれました。ただし、指は絶対安静。言われなくてもそうするつもりですが。

翌日に破傷風の予防接種をうちに来るように言われて病院から解放されました。気になる治療費ですが、取られませんでした。
後で分かったのですが、アルゼンチンの公共医療施設は無料だそうで、これも私にとって非常にラッキーでした。
こういうの、悪運が強いって言うんですかね。

 病院から警察の車で警察署に行ってもう一度事情聴取を受け、ポリスリポートを作成してもらいました。
助けられたキオスクの家に置き去りにしてきた権兵衛も警察が持ってきてくれてました。
更に警察の車でホステルまで自転車ともども送ってもらいました。翌日迎えに来て一緒に病院に連れて行くと約束をして去って行きました。

翌日、警察は来なかったのですが・・・

こうして最悪の一日は過ぎて行きました。


皆さん、あけましておめでとうございます。
[PR]
by fuji_akiyuki | 2011-01-10 00:26 | チリ・アルゼンチン

ここで

ウッソぴょーん
って言ったらみんなおこるだろうな。














































残念ながら事実なのですが。
大きな被害は右側頭部を殴られて4針縫いました。
頭蓋骨には異常ありませんでした。
あと右手人差し指の多分複雑骨折でした。
昨日は病院で頭部の縫合と麻酔を打って指の骨の位置を直してもらいました。
指の骨は最初手術しないと動かなくなると言われました。
ダメ元で、骨の位置を直してみようという医師の表情ではあまり期待できない感じでした。
が、この治療をしてレントゲンを取ったらどこが折れているのか分からないほど綺麗に骨の位置が本に戻っていました。
このまま骨が動かなければ手術は必要ないだろうといわれ、30日間人さし指の絶対安静を言い渡されました。
その他、何カ所かいたむところもあるのですがこれは今までにも何度か経験したことのある打撲位のものだろうと勝手に判断して医師にも言ってないのですが。。。

一応近況報告でした。
やっぱり片手だと打つのがつらいです。
[PR]
by fuji_akiyuki | 2011-01-06 06:33 | チリ・アルゼンチン

goutou ni aimashita

goutou ni atte ookega? wo shimashita
yubi no hone wo orareta node umaku kakemasen

kon na koto de maketakunai......
kuyashii
[PR]
by fuji_akiyuki | 2011-01-05 10:31 | チリ・アルゼンチン

遺跡の夜空に見たものは

地図にはpuquiosとありました。
人口500人以下の町、もしくは村、集落のマークがついていました。
アルゼンチンから、チリへ抜けるサンフランシスコ峠をこえて、最初の町、もしくは村、だと思っていたpuquiosですが、実はここ、到着して初めてわかったのですが、いまはもうだれも住んでいない遺跡でした。

標高は4300mの峠から一気に降ってすでに1000m程度までは下がっているはずなのに、チリ側は全くの砂漠で、木も全くありません。確実に街だと分かっているコピアポまで、峠から150km、ほぼすべて下りなのですが、吹き付ける向かい風は偏西風で強く、コピアポまであと60kmを残すこのpuquiosのところで、決断に迫られました。

このだれも住んでいない、何もない遺跡で、一晩を明かすか、もしかしたら、この近くにあるかもしれない同じpuquiosと言う名の町だか村を探して、先に進むか。この場合、強い西風を防ぐ場所がなければ最悪徹夜覚悟で、コピアポまで走ることになりかねません。ただ、幸いなのはその日は満月か、満月から1日だけずれているはずなので、ほぼ夜中月明かりは得られるはずであろうということは予想できました。

遺跡にはとりあえず壁はあるので、風を防いで、テントを立てることは出来そうでした。
でも、ビールはない、シャワーも浴びれない、まともなご飯にもありつけません。もう既にアルゼンチン最後の町、フィアンバラをでて、5日目だったので、もし、テントだとしてもどこか、人里にたどり着いて、ビールの一本でも飲みたいという気持ちはとても強かったのですが。。。。

まあ、いいか、明日になれば確実にコピアポにつけるし、楽しみはあとに取っておこう。
と思って、疲れてたのもあって、その日はそのpuquiosの遺跡で、テントを張ることにしました。

その夜のことです。

夜中、どうしてもトイレに行きたくなって、テントを出た私は自分の目を疑いました。
出ているはずの満月は。。。三日月?
ええ??
絶対今日は満月なはずなのに。。。。

知ってました?実はこの日、多分、12月21日未明、日本なら、22日の夕方くらいでしょうか。
皆既月食が見えたって。

私が見たのは月食がすすんで、三日月くらいになっている時でした。
日食は派手で、結構みんな意識してて、今度いつ、どこで日食が見られるなどと、話題にもよくのぼりますが、地味な月食についてはいつあるのか分からないので、ちょっと不意をつかれてしまいました。

日食と違って、月食はその時、夜であれば世界中どこででも見られる現象です。日食は新月の時しか起きない現象ですが、月食は満月の時にしか起きません。

日食は地球上で、月の陰の落ちた部分でしか、見ることができませんが、月食は地球の陰の中に月が入るので、世界中どこからでも、月が見えていれば月食を観察することができます。

私が見たのは月がもうすぐ山の陰に沈むころ、完全に月が地球の陰に入ったころだったので、ほぼ真裏に位置する日本あたりでは月が出たころ、すでに月が真暗になっていたか、もしかすると、月がだんだん地球の影から顔を出し始めたころだったかもしれません。

日食も珍しい現象ですが、皆既月食は月が暗く赤く見えるやっぱりちょっと珍しい現象です。
月食の時、月が真っ暗にならずに赤く見えるのは太陽光の回折や大気による屈折などによって、地球を回り込んだ光が月に届くからだそうです。

三日月がだんだん細くなって、月の残りの部分がだんだん赤く見え始めてきた時、この事実に思い当たりました。初めはどんな天変地異かと思いました。


こんな現象が見られたのも遺跡でテントを張ったおかげでした。

サンフランシスコ峠は上りに2日半。下りに3日半もかかる峠でした。
アルゼンチン側は全部舗装路で、途中6個所に避難小屋があって、風、日差し、寒さをしのぐことができるようになっていて、中はテントを張れるくらいのスペースもあって、煖炉もありました。薪はあったり無かったりですが。

結局この避難小屋で夜を明かすことはなかったのですが、休憩はよくここを利用していました。

2泊目は4760mのサンフランシスコ峠の手前20kmにあるアルゼンチン側イミグレで泊まりました。明けて3日目。この日から大変だったのですが。

20kmを3時間くらいかけて上って、サンフランシスコ峠到着。ここまでは予定通りでした。
でもここから、110km先のチリ側のイミグレまで、自分の持っている資料では何もありません。風は強く、夜は寒く、風を防ぐものがなければテントを立てるのもままなりません。
峠を越えたのだから、もう楽になるのかと思ったら、道はダート道になり、とんでもなく走りにくくなりました。
とても100kmも走れません。

でも、10kmほど行くと目の醒めるような鮮やかな碧い、ちょっと緑がかった、深い青の湖がありました。
ラグーナベルデです。ボリビアで見たものより全然きれいな色をしていました。そして、景色を楽しむ余裕も今回の私にはありました。

そして、幸いなことに、そのラグーナベルデの辺に登山管理事務所のプレハブとキャンプ場がありました。
風を防げるようにサイトの風上側に石が積み上げられています。そして、なんと、温泉もありました。


この温泉で、今日はここにテントを張ろうと決めました。
湯殿は3つありました。1つはぬるくて入れないくらいで、もう一つは10分も入ればのぼせそうなちょっと熱いお湯。最後の一つはちょうど良くて、長湯のできるようなちょっとぬる目のお湯で、昼過ぎに到着した私はこのぬる目のお湯につかりながら、目の醒めるような鮮やかな湖を長いこと眺めていました。
そしたら、背中が焼けてしまいました。

これは夜もいけるだろうと思って、夜になるのを待って、ここぞとばかりに一番熱いお湯に飛び込んだのですが、これが全然あったかくありません。ひと肌くらい。全然あったまりません。
多分、源泉の湯量が少ないせいだと思うのですが、夜はお湯の供給量が外気に冷やされる熱量に負けているのかもしれません。
きれいな湖を前に標高4500の露天風呂。これほどいい温泉はないんですけど。残念でした。

翌日もダート道。朝から向かい風マックスでなんだか一番つらい1日になってしまいました。
チリ側は石と砂と風しかない世界でした。生きるものも全くいない、植物すらありませんでした。
でも、ものすごくきれいな山の連続でした。
しろ、黒、茶色、赤、黄、緑、オレンジなどなど、青意外の色ならなんでもありです。まるで筆で書いたようなカラフルな山、色の多さにびっくりしました。青は湖と空にありました。

あの、ボリビアのラグーナベルデの時ほど、辛くなかったので、ちょっと心に余裕がありました。景色を楽しむだけの余裕がありました。
でも、風にはやっぱりちょっと恐怖心がありました。

この峠を越える前、実は一度、砂嵐に遭って、バスで逃げ出したことがあります。
このサンフランシスコ峠の前に越えた、パソシコ(paso sico)も風は強かったのですが、どうにか恐怖を感じずに越えてくることができたので、結構行けるんじゃないかと思い出していた矢先だったのですが。

パソシコを越えて、サンフランシスコ峠のふもと、フィアンバラまで、消化試合的な感覚の簡単な移動になると思っていたところで、とんでもない強風に吹かれてしまいました。
風だけでなく、砂が舞って、砂や小石が体や顔に容赦なく吹き付けてきて、視界が効かなくなってきた時、言いようもない恐怖に襲われて、ああ、これはダメだと思って、引き返しました。
引き返すと追い風になるので、進むのは楽になり、2kmほど行ったところに小屋があることは知っていたので、その小屋の陰に隠れて、風をしのいでいました。

小屋は厳重にカギがかかっていたので、入ることはできませんでした。でも四角い小屋の陰では斜めから風が吹いてくると逃げ場がなくなります。そこで一晩明かせば翌日の朝は風が収まっているかもしれません。
特にこの辺は午後に風が強くなる傾向にあるので、その可能性は十分にありました。
でも、小屋の陰に逃げ込んだのはまだ午後2時半くらいでした。夜まで、まだまだ時間もあるし、今はこの小屋の陰で、風がしのげているけど、いつ風向きが変わるか分かりません。

小屋の中はなんて言うこともない、キリスト像があって簡単な教会みたいにお祈りができるようなベンチが2つ、そして、花とか、お酒の瓶とか、お供物があるだけでした。

そんな小屋なら避難小屋みたいに入れるようにしておけばいいのに。

どうしようもなくなったらこの小屋にどうにか入ろうとして、いろいろ思案してみると、鉄格子を一本抜けばどうにかなりそうでした。そして、そうなった時にすぐに入れるように格子に細工をしている時に通り掛かったバスに飛び乗って、次の町まで逃げてしまいました。

その時の砂嵐から、サンフランシスコ峠を越える時は風が吹き出すたびに、またあんな砂嵐にならないだろうか、と恐怖が頭から離れません。

風恐怖症?そんなのあるんでしょうか。でもどうも最近風に苦手意識ができてしまいました。
これから風の大地、パタゴニアに向かうというのに。今から大丈夫か心配です。
[PR]
by fuji_akiyuki | 2010-12-28 03:40 | チリ・アルゼンチン

必見!!カファジャテ宿情報

アルゼンチンのカファジャテという町にいい宿があります。
フェルナンドとエマという夫婦の経営するその名も
Cafayate Backpackers Hostel
住所 Cordoba 155
町の真ん中の広場から、2ブロック東へ、1ブロック半、南へ行きます。
セントロから徒歩3分の距離です。
そのままの名前ですが、これがなかなか見つかりません。
住所まで行っても全く看板も何も出てません。
でも、ドミトリー25ペソ、キッチン、朝食付。
テントを持っていると庭でキャンプもできて、それだと15ペソです。

paso sicoを越え、続けて南米大陸最高の4895mの峠、アカイ峠(abra acay)をこえて、ちょっとゆっくりしたかったので、安くて、キッチンの使える宿を探していました。
カファジャテは小さな町ですが、観光地なので、結構どこも宿代が高くて、なかなかいい宿が見つかりませんでした。

観光案内所にきいて、いろんな人に聞いて何軒か当たってもなかなかいい宿が見つからず、町を走り回っている時に見つけたユースホステルの看板を頼りにたどり着いた宿でした。

アルゼンチンは外食すると高いので、おいしいものを作るなら、自分で作るしかない、と思って、キッチン付の宿を探していました。
だから、わたしはその宿について、毎日、毎食キッチンを使って料理をしていました。
日差しにやられた唇と目が良くなるまで、3、4泊しようと思って、チェックインをしたのですが、目と唇の調子から、これはあと2泊はしなきゃだダメかなと思ったのが、2泊したてか3日目でした。
あと2泊するなら、と思って、いろいろと食材を買い込んで、夕食の用意をしている時でした。
エマが"あなたはいつも料理してガスをいっぱい使っているからガス代を払いなさい"
って言われました。

私はもちろん怒って絶対払わないと突っぱねました。
まだ宿代は払ってませんでした。実際に支払いの時にガス台を請求されてても、絶対払わないつもりでした。
たしかに、キッチンにはなるべく調理時間は短くとは書いてあるけど、いきなりガス代を請求されるとは思いませんでした。
そんなことされても納得できませんでした。

でもあと2泊分、食材は買ってしまったし、キッチン使わないとどうしようもありません。
最初にキッチンが使えると聞いてチェックインしたんだし、こんな騙し討みたいなのに負けてたまるか。って思って、エマを無視しました。

その夜は宿で、バーベキューを催していました。

最初は宿の雰囲気も良いし、ちょっと参加してみようかと思ってたのですが、エマとの一件があって、そんな気持ちにもなれなくなって、ドミで寝てしまいました。

翌日、次の日に出るので、この日の夕方に宿代を清算しようと思いながら、でも、食材もあったので、私はエマを無視してキッチンを使い続けました。

エマの夫であるフェルナンドはそんな事があったあとも私には以前と変わらず感じよく接してくれますが、何といってもエマの夫です。昨日の話は絶対に伝わっているはずで、宿代を払う時にはガス代も請求されるかもしれない、と警戒していました。

その日は1日そのことばかりが気になって、ちょっと落ち込んでいました。
でも、ガス代のことでトラブルになるのも嫌だったし、夜までエマとも、フェルナンドともほとんど話をしないようにしていました。

そして夜、エマとは直接やり合ったので、フェルナンドに宿台を払いに行きました。
私はお釣りのないように4泊分、フェルナンドに渡すと、フェルナンドはガス代のことなどおくびにもださずに、彼は快く私の差し出した100ペソを受け取ってくれました。

ああよかった。とドミで明日の準備をしていると、フェルナンドがやって来ました。
もしかして、ガス代のことをいいに来たのかなと、ちょっと構えてしまいました。
でもフェルナンドはひと袋の干しブドウを差し出して、
"自転車で走って、疲れたら、これを食べて少し休んで、また走れば良い。"

なぜ?
私はまず疑問に思いました。
どちらかと言うと、フェルナンドもたくさんキッチンを使う私をよく思ってないんじゃないかと思ってました。
突然のフェルナンドからのプレゼントでした。
そして、一言、"これは私たち家族からだ"
と言い残して、私を送り出してくれました。

フェルナンドは私とエマとの一件を知らないはずはありません。
でも彼はそんなこと全く感じさせずに、ただ、私に干しブドウをひと袋くれて、送り出してくれました。
ちょっとしたフェルナンドの優しさだったのかもしれません。
1日、落ち込んでいた私には、心に染み渡る優しさでした。
落ち込んでいる時の小さな優しさ程、救われるものはないんじゃないかと思いました。
この宿の雰囲気がいいのもそんなフェルナンドの人柄なのかもしれません。


落ち込んでいた私を救ってくれたフェルナンドの優しさに何かお返しをしたくても、私にできるのはこのくらいです。
だから、フェルナンドの宿を宣伝します。

カファジャテにはいい宿があります。
[PR]
by fuji_akiyuki | 2010-12-23 06:11 | チリ・アルゼンチン

追いかけてきたものは…

白馬でした。

自転車を乗っている私を後ろから、白い馬が追いかけてきます。
でも、これは、全然のどかな風景ではなく、私は恐怖にすくみあがり、必至に逃げているのです。
なぜなら、この馬、何か様子が違います。

ポッカリと開いた2つの眼窩には眼球がなく、どこも見ていないはずのその眼窩は、しっかりと私を見据えて、口を半開きにして、私を後ろから追いかけてきます。

こんな夢を見たのは前日、そんな馬の屍骸を目撃したからでした。
まだ新鮮そのものに見えるその屍骸は遠目には生きている馬が寝ているのか?と思うほどでした、でも馬ってこんな横倒しに寝るんだろうか。そんな疑問が頭を横切るほど、その屍骸は死んでると思わせないほどの新鮮さでした。
でも、近づいてみると確かにその馬は死んでいて、すでに目を食い破られて、眼球のない眼窩が空を見つめていました。

ほかはほとんど損傷なく、目だけない馬の屍は不気味で、なにか、死神を見たような嫌な気持ちになりました。

これは、パソシコ(paso sico)という、チリのサンペドロアタカマから、アルゼンチンのサンアントニオコブレスに向かう峠を越えている途中でした。

エルラコ(El laco)という、4000mを超える、山頂は5000mにとどくかという鉱山の管理事務所で、たった一人、オフシーズン中の管理を任された齢68のガルバリーノは、水をもらおうと立ち寄った私を管理事務所に2泊も泊めてくれました。

ガルバリーノは毎朝、自分で小麦粉と水を混ぜて、パンを焼きます。そしてをれを私にも分けてくれて一緒に食事をしました。夜は私が何か適当に作ったように思います。ガルバリーノも日本食は食べたことがないといって喜んでくれました。

あと何カ月かで、交代用員がくれば、晴れて御役御免となり、家族の元に帰れるんだと、よく家族の写真を見せられました。

そんなガルバリーノのいる、エルラコを出た日でした。
エルラコをでて、峠を2つほど越えて、パソシコを通過するとアルゼンチン側のイミグレがあるのですが、朝から風が強く、焦っていた私は峠を越えたあと、もう早く山をおりたい一心で、本当はスピードを抑えて下らなければいけないような石のゴツゴツしたダートの下りを下るに任せてもうスピードで、下ってしまいました。
その結果、パンクしたばかりか、リム(タイヤのはまっている金属の輪っか)を破損してしまいました。
破損したといっても、リムを地面に出ている石に強く打ちつけてしまって、リムが少し広がってしまった位でしたが、乗り心地は随分悪くなってしまいました。

そのあと、イミグレを通り、アルゼンチンに入り、身の毛もよだつような馬の死骸を目撃したのでした。

この日は長い1日で、イミグレを出てから、広大な大地をどこまでも走っても、岩陰すら見つけることができず、風は吹きっさらしで、自転車は壊れるし、気持ちは焦るばっかりでした。イミグレを過ぎてから、平坦だけど悪路が長く続いて、その後はゆるやかだけど上りがこれまた長く続きました。自転車は思うように進まず、時間だけが過ぎていきます。永遠に続くかと思えた上りが終わると、今度は緩やかですが、道は下りに転じました。でも道は相変わらず悪く時には砂にハマってしまいます。


もう日は西に傾き、そろそろ本気で、テントを立てるところが見つからないと今晩死ぬんじゃないかと思っている時でした。

10棟ほどの集落を遠く前方に発見しました。助かった、どこかにテントを立てさせてもらおう。うまく行けば物置にでも寝させてくれるかもしれない。

とおもって、喜び勇んで、集落に急いだのですが。。。
残念ながらその集落には全く人がいませんでした。
でも、どこかの家の陰とかにテントを張れば何とか風は防げるかもしれません。
でもできればコの字型とか、L字型の壁の中とかが好ましいものです。建物の中なら、文句ありません。
そう思って、集落の建物をひとつひとつ、どこか忍び込めないものかと点検していくと、集落の中でも一番ましな、役所か、警察の建物みたいな、しっかりした建物の正面の扉が針金で簡単に結び付けられているだけなのをまっ先に発見しました。

これはちょっと、ここをちょちょいとこうしたら開くんじゃないの。。。
とやってみると簡単に、開いてしまいました。

今日はとりあえずここに忍び込もう、だけかが来たら、風がすごかったから避難したんだと言えばまあ、大きな問題にはならないかもしれないし。とにかく、安心して眠れるところがいい。

そう思って、忍び込んだ建物は最初の部屋の左奥の隅に煖炉がありました。もちろん、火はついてませんが、煖炉のうえにクラッカーが乗ってました。袋は開けられているものの、半分以上残っていました。

いつのものかは分かりません、誰のものかも分かりません。でも、私はとてもおなかが空いていました。
きっと、湿気ってるだろうなと思いながらも、エイッと1枚口にほうり込んでみました。
。。。
。。。

サクッ

え、おいしい。。。

結局全部食べてしまいました。

煖炉の横の扉は最初の部屋の左に位置する部屋に通じていました。何もなくて、ちょうどテントが立てられるくらいの大きさの部屋でした。

ここだ。

と思って、私はそこにテントを立てて、キャンプ用の火器で、ご飯を炊き、夕食を済ますと、勝手に建物に侵入したことをちょっとだけ後ろめたく思いながら眠りについたのでした。

そんな精神状態だったから、きっと馬に追いかけられる夢を見たのでしょう。






あれから10年。

私は同じパソシコをこえました。
ラグーナベルでまでの道のりは前回書いたように非常につらく苦しいものだっただけに、10年前、一番つらかったこのパソシコも精神的に余裕を持って越えることができました。
覚えているところもあれば全然覚えてないところもありました。どちらかというと覚えていないところの方がほとんどでした。

でも、馬の夢を見たあの建物は忘れることができませんでした。
実はそれがどこにあるのか、何日目だったのか、全然覚えていなかったのですが。。。

10年たって、その建物を発見しました。10年前のあの日は今考えると、悪路と強風の中を峠と峠らしきところを3つも越えて、90km位走っていたことになります。

今回は最初から、泊まる場所をずらしていたので、エルラコに昼間についたので、エルラコには泊まらずにアルゼンチン側のイミグレまで走ってそこで泊めてもらいました。
だから、10年前に泊まった件の建物まではイミグレから50kmで到着したのですが、10年前はエルラコからそこまで走っているので、つらい1日だったはずです。


10年経って、件の建物は見事なほど完全に屋根が落ち、窓とドアはことごとく全てなくなっていました。
壁もところどころ崩れ、いまではテントを立てるのも、心もとない頼りなさでした。
あの煖炉は半壊し、テントを立てた部屋も落ちた屋根の残がいか、石や土砂が積もり、3分の2ほどがガレキで埋まり、残りはトイレになってました。

煖炉を前にした時、あのクラッカーの袋がフラッシュバックしてきて、10年の歳月を感じ、なんか突然感傷的な気分になってしまいました。


10年前、この建物を出て、10kmほどで、人の住む、普通の町、いや、村にたどり着いたことを覚えていたので、今回はそこまで走りました。
あの時はあと10km頑張ってればとちょっと悔しい思いをしたので覚えていた村でした。

そこから、60km最後の峠を越えてサンアントニオデコブレスという町に至ります。ここはガイドブックにも載っている、まあ、まともな町ですが、そこで、ひとりのサイクリストのおじさんと同じ宿になりました。
このおじさん、ここから、最初、私が行こうとしていた、サラルデオンブレムエルト(男の死の塩湖)方面に行くと言ってました。

この道は下手すると、ラグーナベルデよりも辛くなるかもしれないと、私は避けてしまったところにこれから行こうという人が現れたのでした。

ちょっと羨ましくも思い、ついて行こうかとすら思ったのですが、さっき越えてきた最後の峠をまた越えて、あの建物まで戻らなければなりません。そこから、さらにつらそうな道に入っていくのです。やっぱり考えただけで気が遠くなりそうだったので、やめてしまいました。

その代わり、南米最高の峠、アブラアカイ(アカイ峠、4895m)をこえて来ました。サンアントニオがすでに3700mということで、この峠は南米最高といっても、こっちから越えるのはそんなに大変じゃありませんでした。

いまは、サンフランシスコ峠という峠を越えて、チリ側に戻ろうとしています。あと3回。アンデスを越える予定です。
[PR]
by fuji_akiyuki | 2010-12-13 09:36 | チリ・アルゼンチン

ラグーナベルデへ

一歩。また一歩。
足は砂に埋まり、権兵衛(自転車)のタイヤもズブズブと砂に沈んでゆきます。
最大限、食料と水を満載した権兵衛は軽く70kgを超える重量を持っているはずです。
ハンドルを持って押すだけでは動くことが出来ません。

一歩。一歩。

70kgを超える権兵衛を動かすにはフレームに手をかけて、持ち上げるようにしなければ動きません。

 ここは標高4000mに広がる砂漠。ボリビア南部のラグーナベルデへ向かう途中。でも決して道ではありません。
そこまで続くものはツアーの四駆が作った轍のみ。もちろん、標識もキロポストも存在しません。

 轍はラグーナベルデへ向けて、何千、何万と平行な筋を作り、4000mに広がる砂漠がまるで、綺麗に畝を作った永遠に広がる畑のようになってます。
しかし、その畝は砂でできているので、権兵衛のタイヤを容赦なく吸い込んで、走ることを許してくれません。

 進むなら、進む戻るも、動くなら、権兵衛を押すしかありませんでした。

一歩。一歩。

 轍に沿って、権兵衛を押します。砂の浅いところを選べばおのずと自分の足は砂の深い、畝に当たるところを歩かなければならないことになります。
それでもタイヤは砂に沈み、足場の悪いとろこで、踏ん張って、権兵衛を持ち上げながら、

一歩。一歩。

 進んで行くしかありませんでした。

標高4000mに広がる砂漠には容赦なく冷たい強風が吹きつけてきます。
その、あまりの強さに恐怖を感じる風は殆どが、右か、前から吹き付けてきました。

一歩。一歩。

 権兵衛に取り付けたスピードメーターは0km/hを示したままです。
自転車用のメーターなので、3.5km/h以下の速度は検出してくれません。
ただ、スポークに取り付けた磁石がタイヤが一周するたびにピックアップの前を通り、電気が走るので、その回数だけは確実に数えます。

一歩。一歩。

タイヤが一周するたびに2m弱進んだ事実だけをスピードメーターは積算していきます。
スピードメーターの距離計は10m単位。私が進んだことを実感できるのはタイヤが5周ほどして、距離計の少数第2位の位が動いたときだけです。

一歩。一歩。
一周。一周。

 10m進むのも遠く感じるのに、砂漠に続く轍は地平線まで続いて行きます。
強風の吹きすさぶ中、地平線まで、これは本物の地平線ではなくて、丘のようなものなのですが、そこまで到達すると、また次の地平線まで砂漠の上の轍が続いていきます。
何度も、何度も地平線まで行っては絶望を感じました。

 靴には砂や小石が入り込んで、いつの間にか、靴擦れと、小石が足の裏ですれたらしく、足の指の辺りが摺れて切れだして普通に歩くのも痛みを伴うようになる始末。
ペルーで、なまじハイカットのなんちゃって登山靴なんて買ってしまったものだから、砂や小石を出そうとするたびに靴紐を解いて、結びなおさなくてはなりませんでした。
でも、出してもすぐにまた入ってくるので、しょっちゅう靴を脱いだりはいたりも出来ずに我慢しているうちに擦れてしまったようです。

 足は痛く、進みはのろく、先は気が遠くなるほど続いて、風は強く吹きすさみ、何度も絶望を感じているうちに日は西に傾いていきます。

この強風の中で、テントを立てるのは殆ど不可能に近い、どこかに風を防ぐ場所を見つけなくてはなりませんでした。
しかしそこは標高4000mに広がる砂漠、風を防ぐものなどどこにも見当たりません。
そんな絶望的な状態は焦りを生み、いろんな判断を狂わせます。

この旅の間に、何時の頃からか、私は風に対して、恐怖心を持つようになっていました。
強風に吹かれ続け、寒さを感じたり、ちょっと呼吸が苦しくなったりして、このまま風に吹かれたら、体温をドンドン奪われてしまうんじゃないかとか、いつか、呼吸が出来なくなるんじゃないかとか、そんな心配が産まれて、自転車で走っている時は、そこに逃げ場がないという恐怖が重なって、軽くパニックを引き起こすくらいになってました。
心拍数が上がって、上手く呼吸できなくなって、気が遠くなり、ちょっと発狂しそうになったことがあります。
一度そんな思いをしてから、めっきり風に恐怖を感じるようになってしまいました。
でも、それじゃ、パタゴニアにはいけません。
風は克服しなければならない障害の一つでした。
でも、落ち着いて、深呼吸を一回して、大丈夫、風に吹かれても呼吸は出来る、ちゃんとした装備をして、風に吹かれても体温は奪われない。自分にゆっくり言い聞かせることで、パニックに陥らずにすむことが分かってきました。
チベットでは、あんまり強風で、恐怖心が芽生えてくるようなら、かぜに背を向けて、休憩すると自分を落ち着かせることが出来ることを知りました。その時は背中ってこのためにあるだなぁって、真剣に思ったほどでした。

10年前にもこの辺りには来た事があったので、この辺りの風が強いことは予想していました。
ラグーナベルデまでの道のりは、10年前の雪辱のみならず、風を克服すること、そして、寒さを乗り越えること、が最大の目標になるものと思っていました。

・・・が。

 実際に行ってみたら、困難は風、寒さ、以上に、道路状態でした。

 強風に吹かれ続けても、どうにかなりそうな気はしました、でも、走れないということは、テントをはれる場所まで到達できないという、新しい恐怖を生みました。
上記のように、本当に全然走れなくて、しかも、権兵衛を押して歩くのも非常に辛い、という道のりはそれほど長いものではなかったかもしれません。
でも、権兵衛に乗れない区間は結構長いものでした。

 権兵衛を押せば何とか歩ける状態にある路面は、大体車のタイヤの幅しかありません。そして、そういうところに限って、コルゲーションと呼ばれる、車のサスペンションによってできる、洗濯板のような、凸凹が出来ています。
50cmに一つの割合で、凸凹を超えていかなければなりません。

 くだりでもまったく乗れずに押さなければならないところもありました。

 砂が浅くなって、ちょっと乗れるかな、と思ってもその幅は車タイヤ1本分。そこをはずれれば深い砂にタイヤを取られてしまいます。もちろん、コルゲーションで、洗濯板の上をタイヤ一本の幅で走らなければならないような状態でした。
自転車というのはこぎ始めが一番ふらつくので、そこで失敗すれば2mと進むことが出来ません。何とか最初のひと漕ぎ、ふた漕ぎがうまく行ったとしても、50cmごとの凸凹と、横から吹き付ける強風で、バランスを崩して、右か、左の砂の深いところに嵌ってしまいます。
砂漠地帯では30m、進めればいいほうでした。km単位で自転車に乗れるなんて奇跡でも起きなければ有りえない状態でした。
権兵衛に乗れるなら、乗ったほうが早く、楽に進むことが出来ます。でも、すぐ漕げなくなるなら、乗ったり降りたりするたびに体力も消耗するし、返って遅くなるので、諦めて、ゆっくりでもいいから押した方がいいじゃないだろうか。でも、権兵衛を押してると、もしかしたら、ここは結構乗れるんじゃないか?そんな風に思ったりします。
一日に進める距離が30kmくらいの日もありました。早く無人の砂漠地帯を抜けなければ水や食料がそこを尽きてしまいます。それどころか、この強風を防げるところを見つけられなければテントすら張れないと思うから、気は焦るばかりで、乗るか、押すかの判断も鈍ってきます。
焦りは全然乗れそうにないところで、一生懸命乗ろうとして、体力の浪費につながっていきます。

権兵衛を押しながら、強風に吹かれ、絶望に打ちひしがれながら、自分に強くなれ、強くなれと、時に声に出しながら言い聞かせて

一歩。一歩。

ラグーナベルデへ向かって行きました。
この7年(ちょっと早いですが)で、一番辛い走行(歩行?)になりました。

そして、そんな思いをして、10年間、行こう、行こうと思って、到着したラグーナベルデは・・・
確かに綺麗は綺麗だったですが、到着したときに、その姿を目にしたときに何の感動もありませんでした。
もともと、あまりの辛さに今回は景色を楽しむ余裕はまったくありませんでした。
見ていたものは、前方2mの路面だけで、何が綺麗で、何が醜いのかとか、どうでも良くなって、ただただ、早くこの状況から抜け出したいという願望しかありませんでした。
山は自分の位置確認の道具にしか過ぎませんでした。地図と見比べて、アレが何とか山で、これがボルカノナントカだから今私はこの辺で、ああ、つぎはあの山とあの山の間を行けばいいはずだ。という具合に。

この区間で、唯一救いだったのはLaguna saladaにあった温泉だけでした。

温泉には管理棟のような建物はあるものの、ここには宿泊施設がないために、ツアーの車も立ち寄るだけで泊まることがありません。
私は管理棟の側で、風のあまり吹き込まないところにテントを張らせてもらいました。

 夜は誰もいないので、温泉を独り占めにすることが出来ました。
その夜は計らずとも満月で、西に日が沈むと時を同じくして、東の空から満月が昇ってきて、その月がゆっくり天空に昇って行くさまを見ながら1時間半ほど湯に浸かっていました。
身体は芯からあったまったようで、氷点下の風にも寒さを感じることなく、テントの中でも朝まで寒いと思うことなくゆっくり眠ることが出来ました。

その標高4000mの温泉だけが唯一の救いであって、最高の贅沢だった様に思います。

 ボリビアのウユニから、9日間をかけて、ようやくチリのサンペドロアタカマに着いたのがすでに3日前になってしまいました。
でも、9日間のダメージは思った以上に大きかったようで、足は靴擦れと小石のせいで、未だに傷が癒えず、やっぱり強かった日差しに目と唇がやられて、目は昨日まで痛くて、直射日光の下を歩くことも出来ませんでした。
唇の方は3日間、殆ど外に出ず、室内で日差しを避けていたにもかかわらず、未だに水ぶくれだらけです。

 傷が癒えたら、またアンデスを越えて、アルゼンチンに向かいます。
ここは10年前にも通ったpasso sicoという峠です。ここは峠が5つも連続しています。
10年前、半年間の旅行の中で、寒さと風とダート道と、無人地帯で一番きつかったところですが、今回はもう少し楽に感じることが出来るでしょうか。

で、前回あんなことを書いておいて、その下の根も乾かないうちに一つ、逃げようかと考えているルートがあります。

passo sicoをこえて、アンデスを下らずにまた山の中に入って行くルートがあるんです。途中にsalar de hombre Muertって言う塩湖を突っ切るんですが、この塩湖の名前のsalar de hombre Muertって、“男の死の塩湖”って意味なんです。
そして、多分250kmほど続くそのルート上に村が一つ。更にそのルートを終えてすぐまたチリに抜ける峠を越えるというコースを取るつもりでした。
でも、ここ、今回ので、ちょっと懲り懲りしてて、このコースだと全然補給できるところがなく、アンデスを越えて、アンデスの山の中を走って、またアンデスを越えてチリに戻ってこなければならない羽目になってしまい、ちょっと現実的に今度こそ死ぬかもしれないって思って逃げてしまおうかなって思ってます。
その代わり、カファジャテ渓谷という、ちょっとツーリストにも有名な綺麗な渓谷を通るルートを通るつもりです。
でも、この道はこの道で、南米最高の峠、4890mくらいの峠を越えるそうですが。

 ここから、あと4回くらいアンデスを越えて、チリとアルゼンチンを行ったりきたりしながらウシュアイアを目指したいと思っています。

今回、思ったのは、自転車に乗れない道は面白くありません、ただの苦行でした。ラグーナベルデには是非ランクルのツアーで。ってことでした。
[PR]
by fuji_akiyuki | 2010-11-26 11:54 | チリ・アルゼンチン