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パロ

ストって言うと、日本ならJRのストだったり、バス会社のストだったり、つまり、雇用されている側が給料を上げろとか、労働環境を改善しろとか、そういった要求を通すために起こすものですよね。
パロというのは“スト”と訳されるのですが、ちょっと違います。

 クスコまで、最後の大きな峠に差し掛かったときでした。
登り始めて間もなく、小さな村があるのですが、その村の住人が、木を切り倒して、道路を遮断するように横倒しにして、並べています。
パロです。


 パロはスペイン語の“止まる”という動詞“parar(パラール)”の活用の一つだと思うのですが、これがストライキだとよく訳されるそうです。

 一体何をしているのか。

 10年前にもありました。道路に石を並べたり、路上でタイヤを燃やしたり、ひどいときには道路に横向きに駐車したバンを燃やしていたり。
そうやって、交通を妨げます。10年前にはボリビアで、水道料金の値上げか何かに住民が不満を爆発させてそういう暴挙に出たそうです。

 今回もきっと何かに抗議してのパロだと思われますが、わたしは、この抗議の方法にはどうしても反発を覚えてしまいます。

今回、すでにペルーに入って、2ヶ月ほどがたちますが、パロに見舞われたのは初めてでした、でも、このクスコ周辺ではつい一月くらい前にもあったそうです。その少し前にもボリビアでパロがあったそうです。
パロはアンデス周辺でよくある抗議行動なのかもしれません。

 何に対して抗議しているのか分かりませんが、バスやトラックの交通を闇雲に妨げる行為をわたしはどうしても許せません。

 べつに私は住人でもないし、外から来て、そんなこと言うのもどうかと思うかもしれません。しかも、自転車で移動している私には殆ど被害はありません。
ちょっと自転車を担いで、乗り越えればすむことなので、私の旅行には全く影響がありません。それどころか、車が止められているので、道路いっぱいに使えて返って自転車で走るのが楽になるくらいです。

 でも、パロは行政やら、政策に抗議するにしても、被害をこうむるのは圧倒的に一般市民です。もちろん旅行者も含まれます。やり方も矛先も全く間違った抗議行動で、わたしはどうしても怒りを覚えずにはいられません。

 止められた車の中にはどうしてもそこを通っていかなければならない人だって含まれているでしょう。緊急を要する車両や救急車だって含まれるかもしれません。大事な親戚や友人の結婚式に駆けつけるためにバスに乗った人もいるかもしれません。
旅行者であれば時間の無い人はマチュピチュに行こうとして、限られた時間の中で計画を立ててきたのにこのパロのおかげで行けない事もあるようです。
いくらでも迷惑な状況は想定できます。

でも、その殆どの人は周辺住民の不満とは何の関係も無い人たちです。それどころか、被害を受けるのはパロをやっている本人達の場合だってあるんじゃないでしょうか。
しょっちゅうやっていればパロをやっている最中に急病人が出るかもしれません。でも救急車を呼ぼうとしても自分達で道をふさいでいるから、救急車は来ることが出来ません。
パロはある村が一つだけ行うのではなく、大体、周辺の村々、町々で一斉にやっているので、パロ中に病人が出て、救急車を通そうとしても周辺の村、町全部のパロを一旦中止することは難しそうです。
そうやって、パロをしなければ助かった命が失われて行ったこととかないんでしょうか。

 わたしは、自転車でパロしている村や町を通ってきました。でも、住人はそんな困っている人のことなんて知らん顔で、お祭り騒ぎでした。
車が通らないことをいいことに道路で、サッカーやってたりしてました。

 どうしても行きたい。病気の母を見舞うために、兄弟の結婚式にどうしても出たい。病人の命を乗せた救急車は一刻も早く大きな病院に到着しなければならない。
そんな切実な思いを乗せた車両を止める権利なんて誰にもありません。

 そして、こんなに迷惑をかけているのに当人達はお祭り騒ぎ。一体どうして、こんなに人のことを思いやることが出来ないんでしょう。
逆の立場になった時、どう感じるか、どうして想像できないんでしょう。そして、いつでも逆の立場になることはかんがえられるのに。
教養が無いってこういうことなんでしょうか。

 パロをしながら、お祭り騒ぎの村人達をみて、無性に腹が立ちました。
何の抗議行動かは知りません、はっきり言ってどうでもいいです。こんな風に全く関係ない大勢の人達に迷惑をかけて、平気な顔をしている奴らなんて、全員死んでしまえばいいのに。
本気でそう思いました。

 私がペルーに滞在している間に、少なくともクスコ周辺で2回、ボリビアで一回あったそうですが、アンデスに上るまで他では全く聞きませんでした。
そう考えると、こういうパロはクスコやラパス周辺だけなのかもしれません。

 クスコの町に入ってくるときにも道路に石を並べているところ、 木材で道を遮断しているところ、ところどころにありました。
目撃するたびに気分が悪くなりました。

 何に対する抗議かは知りません、でも、やり方も矛先も全く見当違いです。

10年ぶりのクスコでしたが、何もかもが色あせて見えた感じです。
ペルー、ここまで好印象でしたが、クスコに上がってきて、ちょっと嫌な面を見てしまった気がしました。

今回マチュピチュもパスしました。
 マチュピチュ見に行くには10年まえの数倍は掛かるようでした。
インカトレッキングに行こうものなら、ガイドもつけなきゃならなくなって、ツアーじゃないと入れなくなっていて、10倍くらい掛かります。
10年前は勝手に4人くらいでパーティ組んでインカトレッキングで行って、マチュピチュでやれることは殆どやりつくしたので、いまさら何倍も払って見に行くのもバカらしいです。
実は同じ思いでナスカの地上絵もセスナには乗りませんでした。
ちょっと有名になるとドンドン値上げするって所もあんまり好きになれません。

 本当に見たいものは、本当に感動的なものは、前回日記に書いたように、お金を払うようなところじゃないことのほうが多いです。
そして、その感動は、遺跡とか、そんなちっぽけなものじゃ味わえません。

 これから、チチカカ湖、ボリビア高原、ウユニ塩湖、10年前に行こうかどうか迷っていけなかったラグーナベルデ、そして、季節的に行けなかったパタゴニアとアンデスの数ある峠などが待っています。
しばらく、10年まえの自分と競争になりそうです。
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by fuji_akiyuki | 2010-09-28 07:16 | ペルー

雨の町プキオ(Puquio)、そして雪辱のアバンカイ(Abancay)

大雨に遭って、工事車両に拾われてプキオまで送ってもらった私は天候の回復を待つために、プキオで停滞を余儀なくされました。
しかし、雨は弱くなることはあっても、止むことはなく強くなったり弱くなったりしながら降り続きました。
時期的にもう晴れないのかもしれません。
プキオに着いた日、その翌日、そして、その次の日も雨。
もう、限界でした。2泊明けて、3日目はもう、この退屈なプキオの町にはこれ以上いたくありませんでした。
それに、プキオからアバンカイまでの300km、プキオの前に泊まったkm52(キロメトロ シンクエンタ イ ドス)のレストランで会ったトラックドライバーが言うには、300kmの間にレストランは2カ所、そして、その区間はほとんどダートということでした。
道端に落ちているペットボトルにまでてを出してしまう体たらくぶり、こんな状態で、300kmのダート、休憩できるレストランはたったの2軒、もしそんな中で雨が降ったら---、しかもここからも4000mを超える峠がいくつかあるはず。
雨に降られるのが怖かったのです。凍てつくような寒さの中で、雨に降られてテントで寝なければならないことが、水が尽きてしまうことが、ダート道で立ち往生してしまうことが。。。
3日目の朝、雨が降っていたことを言い訳にして、憶病風に吹かれたわたしは逃げるようにプキオの町から、バスでクスコに向かってしまったのです。。。。10年前。

私の記憶の中で、雨の町だったプキオは晴渡り、10年前とは比べものにならない活気を呈していました。
そして、プキオの次の目的地は、300km先のアバンカイ。10年前逃げたしたアバンカイ。バスで通過しただけのアバンカイ。行くはずで、行かなかったアバンカイ。知らないはずなのに、名前だけが10年間、大きな挫折とともに記憶の中に深く、深く刻み込まれ、忘れることのなかったアバンカイ。

そう、わたしが、10年の時を経て前回と同じナスカ-クスコルートを選んだ本当の理由、それはプキオに自力で行くことでも、コンドルセンカを落ちてるペットボトルに頼らずに超えることでもなくて、この、挫折に満ちたアバンカイに行くことで、雪辱を果たすことでした。

プキオからは10年前の自分の幻がいないので、10年前の自分と競走することなく自分のペースではしれます。
今回は、リマの宿で、5年前に同じ道を走って、詳細な情報を情報ノートに残していってくれた自転車乗りのおかげで、わたしは、ほぼ100%信頼のおける1km単位の情報を持ってこの道を走ることができました。
その情報の通り、プキオを出ると40kmに及ぶ上り坂が始まりました。
その勾配は距離が長いだけに緩く、ペダルを踏む足はそれ程辛くはないのですが、とにかく長い。プキオを朝出たのに、登り切るころはとっくにお昼を回ってました。

標高4000m、最後の丘を超えて見えてきたものは。。。


小さな草がびっしり生えて黄緑色の大地、そこに青く、蒼く広がる湖、空は群青色で、対照的に真っ白なちぎれた迷い雲が漂っています。空はちかく、風は強く、空気はキンとしています。ときおり吹く風に高山植物特有のハーブ系の香りが混じります。
空気は爽快で、ペダルを踏む足がフッと軽くなると同時に強く、キンとした風に火照った体が冷やされていきます。そして、目に入る景色は別天地、まるで違う世界に包まれているようです。

大地に生える草はびっしりと言っても、小型のススキみたいな感じで、ひと株ひと株が数えられて、赤みがかった黄土色の大地がのぞいています。拳大から、人がうずくまった位の大きさの岩がゴロゴロしていて、遠くまで、黄緑色の絨毯のうえに黒く点在しています。
そんな大地は何万年、何億年という大地の変動、雨、風の侵食によって複雑にうねり、遠くまで、見渡せる先の山脈まで続いてます。
360度うねり、広がる大地のあちらこちらに、湖がや、小川が点在して、青い、蒼い水をたたえていたり、大地に稲妻のような割れ目を描いていたり、空の色を反射したりしています。
そして、千切れ雲の黒い影がゆっくり、ゆっくりとそんな大地の上を気紛れにはいまわる様子は優雅でもあり、のどかでもあり、そして牧歌的でもありました。

例えてしまえば陳腐になってしまいますが、モザイク画の中に放り込まれたような世界です。


10年前。わたしは、ここをバスで通過してしまったのです。
ここは、自転車で走るための道でした。こんな世界を体感するために自転車に乗っているのです。
バスに乗って、窮屈なシートから、狭い窓を通して見える世界じゃだめなんです。
そのキンとはりつめたた空気は感じられないし、空の近さも、うねる大地の大きさも、ゆっくりと流れる時間もそのすべてを犠牲にして、私は10年前、ここを逃げてしまったのです。

バイクでも、チャーターの車でも、やっぱりダメだったともいます。これは、自転車乗りにしか分からない感覚ですが、このちょっと寒いくらいの風はそれまで汗を流して上ってきた者でなければ心地よいと感じられないかもしれません。汗が冷える感覚、丘を超える時にペダルが軽くなって、足の筋肉が弛緩される快感。丘を超えた瞬間に視界に湖が広がる時のあの鳥肌の立つ感覚。
これが、私が旅の手段に自転車を選んだ理由だし、自転車で来なければならなかったのです。わたしは、ようやく、10年越しの思いを果たすことができました。

プキオから最初の峠を超えるとそこから、高原が広がります。1日では超えられない高原。標高4000mの別天地が続きます。初めは気持ち良く走っていたのですが、夕方に段々と千切れ雲が大きくつながり始め、雲行きがやあしくなり、左前方と真後ろに雲底から足が伸びているのが見えました。確実に雨が降っています。

標高4000mで受ける雨はきっと冷たいことでしょう。朝になれば凍ってしまいます。そんな中でテントを張るのはなるべく避けたかったので、わたしは、次の村で、宿を取りました。情報があると、村までたどり着ければ雨が降りそうな時なら、倉庫でもなんでも屋根のあるところにテントを張らせてもらえるように頼むことができるという安心感があります。宿は期待していなかったのですが、その村には宿というか、部屋を貸してくれる人がいて、その夜はテントではなく小屋の中で寝ることができました。

結果的には雨は降らず、満天の星空をみることができました。


そして、昨日、谷を下って、最後に15kmほど上って、トラウマのごとく記憶に深く刻み込まれたアバンカイに到着しました。これで、心の中のしこりがすっと溶けていきました。
10年心に住みついた知られざるアバンカイは山の斜面に広がった、何の変哲もない地方都市でした。
ロンリープラネットにはスリーピィ(眠くなるような)とまで形容された街ですが、今日、日曜日には大きな市が立つらしく、活気があり、それなりに興味深い街でした。
今朝はそこで、市をひやかしながらひと回りして、ビックリいも(マッシュポテトの中にいろんなものを入れて揚げたようなもの。あんまりホクホクしてなくて、衣もないコロッケの中に何かが入っているような感じ。何が入っているのか分からないので、勝手にビックリいもって名付けました。)とセビッチェを食べて来たところです。

雪辱を果たしたわたしは、アバンカイでゆっくり休んで、クスコへ向かいます。後200km。
クスコからはまた10年前の自分の幻が現れるのがちょっと嫌ですが、きっとまた、10年前の自分に挑戦してしまうんだろうな。
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by fuji_akiyuki | 2010-09-20 04:23 | ペルー

コンドルセンカ

ナスカから99kmほぼ全て上り坂。
そして、99km上ってたどりつくのが、コンドルセンカという名の峠。4330m

わたしはここを10年前に登りました。

そしてまた、登ってきました。

クスコに行くならほかにもいくつか道があるのですが、なんで、また同じ峠を越えたのか、これは、10年前の自分に満足できなかったからなのです。

10年前。
私は今回と同じようにナスカで宿泊し、朝、ナスカをでて、コンドルセンカをめざしました。
ところが、この辺の気候は本当に乾燥していて、ナスカから延々とつづく上り道はずっと沢沿いなのですが、沢はきもちいいほど完璧に涸れているのです。

山の上り道だと辛くなっても大抵沢の水があったりするので水がなくて困ることってあんまりないんです。
でも、ここは全然違っていました。

乾燥して、日差しが強く、すごい勢いでのどが乾きます。上り坂だから全然自転車も進みません。
水を節約しなければなりませんでした。休憩は強い日差しを避けるために崖のわずかな窪みに見つけた小さな影に入ったりもしました。
でも影があるだけ、その前のイカーパルパに比べるとその点はましでした。
その時持ってた水は1.5リットルのペットボトルが2本か3本。1本は自転車のフレームに取り付けたホルダーに入れていつでも飲めるようにしてました。

でも、この1本がたしか、30kmも行かないうちにほぼ空になってしまったのです。
あせりました、それは本当に追い詰められる思いでした。本気で死ぬんじゃないかという恐怖でした。
峠まで100km、そこまで村も何もないかもしれない。このペースだと1日で峠まで到達することは到底不可能。
予備の水は途中でテントを張った時と、明日のために取っておきたい。でも、もう水を補給する所はありません。

追い詰められた私は。。。。
道端に落ちていたペットボトルに手を出してしまったのです。
ペットボトルの中身は明らかに怪しいものもありました。コカ・コーラなのに黄色だったり、スプライトなのに黄色だったり、もちろんそういうのは避けました。

でも、どう見てもこれはコカコーラじゃないかって色してるのかもありました。勇気を出して、拾い上げて、ふたを開けてにおいをかいでみると。。。結構いけそう?

そして、さらに勇気を出して、一口。。。。大丈夫!!

結構そういうペットボトルが落ちていたので、それに頼れば生きていける!!

と、そう思ってしまいました。
もうこの時点で、完全な負試合、計画の時点で失敗でした。
結局その後10kmほどで、商店があって、実はそのあと、峠まで何カ所かそんなトラックストップみたいなむらがいくつかあって、落ちてるペットボトルなんて飲まなくてもよかったはずだったのです。
その失態がゆるせなくて、もし、もう1度ここを通ることがあれば。。。と思っていたのです。
まさか10年後、自分がその同じ道を通ることになるとは思っていませんでしたが、今回、そんな思いがあって、同じ峠を越えることにしたのです。

そして、今回も水はかなり飲みました。1.5リットルに加えて750mlのボトルをフレームに装着、さらに2.5リットルの予備を持ちました。しかも1km単位の詳細な情報も持ってナスカを出ました。

44km、52km、84km、87kmに商店があることを知っていました。日差しが強いことも知っていました。それでも、やっぱり、30kmをすぎたころにはほとんど水は残っていませんでした。
あと10km 行けば商店があることを知らなかった10年前の自分が焦っていたのもうなずけました。

でも、10年たって、そのつらさもあんまりよくおぼえてなかったみたいです。
ちょっとなめてました。
10年たってもつらいものはつらいのでした。でも今回は道端に落ちてるペットボトルには意地でも手を出しませんでした。
なんでこんなにつらいんでしょうか。
約100kmで4330mを登るなら、平均勾配は4.3%だいたい5%くらいから、つらいと感じる位だから、そんなに坂はきつくないはず。でも辛い。やっぱり長く続くということと、日差しと乾燥のせいじゃないかと思います。

そして、1日目。52kmの村までしか登れませんでした。
実は10年前もそこで泊まりました。1日頑張って52kmしか進めないなんて。。。。
なんか自信を喪失してしまったものでした。

でも、10年前は4時だか4時半に到着できたのに、今回は5時半でした。あのときはもう少し進もうかと思ったけど、雨がぱらつき始めて、レストランの主人にたのんで、倉庫の中にテントを張らしてもらえることになったのでその村に泊まることに決めたんですが、あとで、その村の名前がkm52(キロメトロシンクエンタイドス)と知って、自分が52kmしか走ってない事実を知ったのですが、今回行ったら、villa tamboって名前がついてました。
いや、もしかしたらむかしからついてたのかもしれませんけど。。。

昔は売店併設のレストランが一軒とよーく観察するとなにか売ってることが分かる商店が2、3軒しかなかったのに、レストランは3、4軒に増えてました。

2日目。

10年前は2日目にコンドルセンカの峠を越え、プキオと言う町の手前まで行ったところで、大雨にあって、工事現場の詰所に雨宿りをしていた作業員に招じ入れられて、後から来たトラックで作業員と一緒にプキオまで連れていってもらいました。

でも今回は、2日目の朝から、なんか全然足に力が入りません。前日の疲れが残っているのでしょうか。それとも高山病?52km地点は約3000mだそうで、そこから登るので、息が切れて、足に力が入らなくても当然といえば当然ですが、それは10年前も同じ。むしろ、エクアドルやワラスなど、北ペルーの山を走ってきた今回の方が、高所には順応しているはずです。やっぱり歳でしょうか。
言い訳するなら、今回の方が、たぶん1.5倍くらい荷物を持っていることくらいです。
1台だったカメラは2台になり、2本だったレンズは3本になり、チェーンとギアの換えまで持って、2個で済んでたサイドバックは4つに増えました。

と、言い訳を言っても2日目、私は峠手前10kmの89km地点までしか走れませんでした。じつに、たったの37km。自分が情けないです。
でも、そこに到着したのはまだ昼過ぎの2時半だったし、走ろうと思えば峠を越えて、下るくらいはできたかもしれません。そしたらまだまだ10年前の自分に引けをとらないと、無理やり自分を納得させるちょっと情けない34歳です。

そして、3日目の今日、コンドルセンカを10年ぶりに越え、そして、10年前できなかった自力でプキオに到着しました。
10年前の記憶はあやふやで、全然プキオの町は覚えてませんでした。自分の泊まったホステルでさえ、緑か青っぽい壁の色だったなぁ。くらいで、全然それらしきホステルも見つけられませんでした。
町は10年たてば変わるけど、変わるはずのない峠の景色すら、ほとんど覚えてませんでした。峠の下りは雨と霧で煙ってる記憶しかないからしかたないにしても、コンドルセンカの雄大な景色は前回も見たはずなのに。。。。
km52の前に泊まったあのレストラン(正確には倉庫ですが)も、そのときの主人も発見できませんでした。
そこで、私はメニューを見せてくれって言ったつもりがメヌー(スペイン語で定食)がでてきて、はじめてメヌーを覚えたレストランだったのに。。。

だからもう一度同じ道を。。。。。

いや、実はそうじゃないんです。何でクスコまで、この道を選択したのか。もっと大きな目的があるんです。
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by fuji_akiyuki | 2010-09-16 07:02 | ペルー

人間に出来ること。私はマリアを信じない。

地上絵で有名なナスカから、北へ140km、イカという町があります。
リマから走るとイカ、ナスカの順になるわけですが、一日で140kmはちょっとつらいので、イカから約100km、ナスカまで後40kmというところにあるパルパという町を目指しました。

 イカを出て約20kmほどは町も点々としていて、休憩には事欠かないだろうと、調子に乗っていました。
しかし、あるところからいきなり、砂漠になりました。とは言っても今までも突然砂漠になって、でもしばらく走ると町なり村なり、もしくはぽつんと一軒だけレストランや商店があったりしていたので、気にせず砂漠に突入していきました。
リマから続くパンアメリカンハイウェイはアスファルトが新しく黄土色の砂漠に引かれた一本の真っ黒い線で、路肩も広く、状態も上々、砂漠に入ったことなんて全然気にしてませんでした。
 でも、10km、20kmと炎天下の中、休憩も取れずに走り続けているとだんだん辛くなってきます。

 太陽は天頂にあり、自分の影は強く濃く、ほぼ真下にあります。そろそろ限界だと思って、休もうにも立ち木一本ない砂漠の真ん中でした。
パルパまではまだはるかに遠く、次の町まで、一体何キロあるのか、それとももうパルパまで町がるのかどうかも分かりません、止まって休んでみても直射日光を避けるすべがないと体力は消耗するばかりです。
走ってるほうが風か来るからまだ暑さはしのげるのですが、もうすでに何十キロと休み無く走ってる足と心肺系のほうは確実に休息を必要として悲鳴を上げています。
でも止まれば照りつける太陽に容赦なく焼かれてしまって、これも体力の消耗につながります。

 休むすべを失い、逃げ場を探して、走り続けるしかありませんでした。

どうにか影だけでもあってくれれば。。。。

 そう思って、追い詰めれられて、切り通し(道路を通すときに山や丘を削って勾配をゆるくしているところ)のほんの1メートルほどの崖にわずかに出来た小さい影に入ろうと試みて、そのままじゃ全然無理だったので、少し崖を掘ったりして、どうにか頭が入るくらいの影を作って、頭だけでもと思って、寝そべって影に頭だけ入れてみました。
でも、その他の全身、全部太陽に照り付けられ、やっぱり全く休憩になりません。

 もう、走るしかない。

 それから、どのくらい走ったのか良く覚えてません。
 でも、幸運にもパルパに着く前に小さな町とそのなかに商店を発見、本当に命からがらと言った感じで、ジュースを買って、休憩をとりました。
最初は店の中のベンチに腰掛けていたのですが、その体制もつらく、床に座り込み、結局床に倒れこんで、2時間程眠ってしまいました。
途中、店の奥から小さな子供、ようやく何かに歩けるくらいの赤ん坊、が出てきて、突然おしっこしていきました。
 距離があったので、かかることは無かったのですが、ああ、そういう床に自分は寝転んでるんだなぁ、と思っても全く起きる力もありませんでした。





10年前、2000年にここを走ったときの記憶です。
 そして今回。10年たって、黒光りしていたアスファルトはひび割れ、そこを治した後が見受けられ、路肩はガタガタになり、色はしらっ茶けて砂漠とあんまり見分けがつかないような色になっていました。
同じ道を10年後に走るなんて思ってもいませんでした。そして、今回は前回のような失態を繰り返さないようにといろいろと準備をしました。。。
と、言いたいところなんですが、実はこの時期、前回とは違って、そんなに暑くないんですよね。
 10年前の記憶は鮮烈で、リマとか、ナスカとか全然覚えてないのにここだけはつらい記憶があったので、ここにつくまでに、イカを出るまでには傘を買って、もしどうしても休憩するときは一応影が作れるようにして、水も今ある水の更に倍くらい持って行こうと思っていたのですが、実際このあたりにつくと朝は寒いくらいで、晴れてくるのも早くても8時、9時くらいからって感じでした。
 
 そんな訳で今回は特別な用意は無く、ただ早いうちに距離を稼ごうとイカを早めに出発するにとどまりました。

 地図を見て、砂漠に入る直前にしっかり休憩を取っておこうと思って、注意深く走っていると、10年前は20kmほどと思ってた砂漠に入るまでのみちのりは、実はイカから約30kmで、今回はそのちょっと手前のガソリンスタンドで休憩して置きました。
砂漠は記憶の中では60kmか70kmくらいと思っていたのですが、実際は45kmで、多分10年前は調子に乗って、イカから休憩を取らずに走ったので、60~70km休憩が取れなかったのかもしれません。
 そして、肝心の砂漠はというと、多分10年前にはなかったであろう小屋やらバス待ちのためのひさしやらが5~10km置きにあって、商店やレストランではないにしてもあの時のように死にそうになりながら走らなくても休憩が取れるようになっていました。 
今回は天候に恵まれて、イカを出たときには寒くて、霧雨すら降っているくらいで、日が出てきたのも砂漠に入ってしばらくしてからでした。
休憩も取ろうと思えば取れたのですが、なんとなく10年前に走りきった道を休憩を取らずに走りきりたくなって、結局休憩も取らずに走ったのですが、全然辛くありませんでした。
砂漠を越えて、命からがら入った町はサンタクルスという町でした、でも今回はそこすら素通りできるほど体力に余裕がありました。
10年前より体力が衰えこそしても上がることはないはずなので、今回は本当に天気に恵まれたようです。
でも、私が最も驚いたのは砂漠の最後15kmにわたって、まだ小さな物ですが、両側に街路樹?が植わっていることでした。
 何の木なのか分かりませんが、砂漠によく生えてる木を街路樹にしようという計画みたいでした。

 ペルーの太平洋側、西側の海岸沿いはほとんど雨が降らない気候で、何もしなければ多分殆ど砂漠になってしまうような土地です。
でも、太平洋側にも町は多く、町に着くたびにそれまでの砂漠が嘘のように緑が生い茂っていたりします。
しかも、町中だけならいざ知らず、ちょっと郊外まで、大規模な農場が広がっていたりします。
 町はたいがい河口付近に広がることが多いので、町中なら、水を取ることは容易かもしれませんが、海岸線に沿って、広がる砂漠にパンアメリカンハイウェイ沿いに農場が広がっているのを見ると、人間はこんなことまで出来るんだなぁとちょっと感心したりします。
パンアメリカンハイウェイを走っていると両側に、もしくは片側に広がる農場(道の片側が不毛な砂漠で、片側だけに緑豊かな農場が広がっているほうがそのギャップを感じて驚きが大きいのです)を見ていると、どのくらいこの農場は砂漠を侵食しているんだろうか、と、ちょっと興味が湧いてきます。
昨今、便利になったもので、こういうのはグーグルマップなんかで見ると良く見ることが出来て、結構な広さで、農場は砂漠に広がっています。
 リマに入る一日前に泊まった太平洋に臨む町などでは、背後に見える砂丘にびっしりと緑の畑が敷き詰められていて、これもまた圧巻でした。

 べつにそんな話を聞いたわけではないのですが、ペルーって、もしかして、緑化に力を入れているのかもしれません。
自転車で走るために買ったペルーの会社が出したペルーの地図にも熱帯雨林が伐採されて消滅しているエリアが、森林地帯をあらわす緑の中に黄色で示されていて、わざわざ海の部分に大きくそのことがかかれてあったりしてました。

 私自身はアンチエコロジーだし、エアコンの設定温度はいつも18度で、誰も誉めてくれる人なんていないのにエコロジーだと信じて汗をにじませながら、28度で我慢するなんてさらさらばかげていると思うほうですが、こうやって、国だか企業だかが、地図に熱帯雨林の破壊について、注意を促してみたり、砂漠に農場やら、街路樹を植えてみたりっていうのは、悪くないと思うのです。

 砂漠化だ、砂漠化だと叫ばれる世の中で、ペルーは、その砂漠化に悠然と立ち向かうかのごとく砂漠の緑化に成功している。。ように見えるのです。

 別に緑化とか、エコロジーなんて関係なく、人が生きていくうえで、農業に頼るなら、それはもう、広大な農場が必要になるだろうし、まわりが砂漠でもそれをどうにかして、農場にしていかなくてはそこに暮らす住人の糧を得られないのかも知れません。
でも、砂漠であるより、農場であるほうがよっぽど人間には利益があるように思います。
ペルーの砂漠に限らず、イエメンでも石のごつごつする荒野に畑を作ってたし、マチュピチュでも狭い尾根を取り巻くように段々畑が広がっています。エクアドルも山の上に綺麗に畑を作っていたりしました。
こうやって、多分作物を作るのが困難であろう土地に畑を作っているのを見るたびにアフリカって何であんなに畑が無かったんだろうって、不思議に思い返してしまいます。

 で、こうやって、砂漠に農場を作っているのを見ていると、砂漠を緑地化するのってそんなに難しいのかなって、気がしてくるのです。
水を供給することだけで、育つ植物、もしくは作物があるのなら、水を取ってきて、砂漠にまくだけならそれほど難しくない気もします。
ちょっと川の上流に上って、川底にホースの入り口を沈めておいて、入り口から出口まで、入り口より高いところがなくて、途中に穴が開いてなければ水は何もしなくても出口まで出てくるはずなので、少々長くてもホースなり、パイプを通せば水を取ってくるだけなら、そんなに大掛かりな装置も、動力も要らないで出来るはずです。石油のパイプラインなんかより全然簡単に出来るんじゃないかと思います。
取ってくる水は川の水で、ほうっておけば海に流れ出てしまうだけのものだし、それを少し砂漠にまくことで何か植物が育つのなら、それはそれほど難しくないのかもしれないって、ちょっと考えてしまいます。
でも、実際、ペルーにはいってから、運河を目にすることが多い気がします。それに、街路樹はよくみると、根元に黒いホースのようなものがずっと這っているのを見ることもあります。
サハラ砂漠とか、アラビア半島とか、そんなところだと難しいんですかね。確かに広大で、どこから水を取ってくるかは問題かもしれませんが、ペルーで出来ることならできるような気もしてきます。
ペルーの砂漠を見ていると、結構人間に出来ることってあるんじゃないかという気がしてきます。

 今、地上絵で有名なナスカに来ています。
ナスカの地上絵は紀元前2世紀から紀元後800年の間に描かれたものだそうです、そして、この地上絵が発見されたのが、1939年6月22日、考古学者のポール・コソック博士によって発見され、ドイツの数学者マリア・ライヒェを中心に、その解明作業と保護が行われるようになった。。。そうですが・・・

私はこの話がどうしても信用できません。10年前、地上絵を間近で見てからこの溝が何百年も砂に埋まることなく残るなんてありえない。と確信せずにはいられませんでした。
 確かにこの辺りは雨も殆ど降らないし、植物も育ちません。だから、雨による侵食も無ければ、草の根がはることもありません。植物が育たなければ他の動物が歩くこともそうそう無いだろうし、侵食といえるものは風と太陽くらいなものでしょうか。

 でも、風が吹けば砂は舞うし、穴を掘ったとすればそこにだんだんと砂は溜まって穴は埋まってしまうでしょう。しかも、雨は降らないといいつつも、グーグルマップで、その辺を見てみるとかなり水の浸食の後が見受けられます。
近くの川(インへニオ川)は度々氾濫することがあった、と言うし、何百年もの間には雨が降ることもあったのかもしれません。
それが、幅20~30センチ、深さ10センチの溝によって描かれた地上絵が何百年も砂もかぶらずに存在しえるなんて信じられますか?
これが石を並べて作られたものなら、その石を動かすものが無ければ何時まででも残るというのなら、まだ考えられそうですが、浅く掘った溝が何百年も消えずに残るなんて私には信じられません。
実際、間近で見ると地上絵の線は非常に頼りなく、車の轍ほどでしかありません。でも、同じ地域に見られる車の轍には新しいものと消えかかっている物がはっきり区別できます。
つまり、車の轍は時とともに消えていっているという証拠ですよね。車の轍は消えるのに地上絵は消えない。しかも、車の轍は地上絵に比べればはるかに新しいものであるにもかかわらず。。。。。。

 地上絵を描こうとするなら、相似を使って小さな図柄を拡大することによって、結構簡単に、人数次第では短時間に描くことが出来るそうです。
小さな図柄の要所要所に杭を打って、拡大したい場所を考えて、小さい図柄との相似の中心にも杭を打ちます。後は小さいほうの図柄に打った杭それぞれと相似の中心の杭を紐で巻きます、10倍なら10回、20倍なら20回、2本の杭を巻いて、それを開いて、伸ばせば拡大したい図柄の対応する点になるという手法です。

でも、この方法を使って地上絵を描いたのは、最初の発見者、もしくは同時代のナスカの人々ではないか。と私は疑っています。
こんな地上絵を発見した、コレは重要な遺跡だ、と言って、このままでは消えてしまうかもしれないから、毎年、保存運動をしよう。
と呼びかければ1939年に描いた地上絵が、毎年、溝に溜まった砂を払われ、綺麗に見えるように整形されながら70年間残っているとするならば、これは不思議じゃないですよね。
だから、私は真相はこっちにあるんじゃないかと10年前から疑っているのです。
そして今回、同じように見た地上絵は心なしか10年前より幾分はっきりと、綺麗に見えたような気がしてなりません。

 実際のところ、真相を知るのはもう今は亡きポール・コソック博士か、マリア・ライヒェ女史だけなのかもしれません。
巧妙に、緻密に作られたウソはうまく、見破られることなく、世の中に浸透して行ったのかもしれません。
そして、博士は、女史はその裏でほくそえんでいたのかも知れません。われわれ人類はいとも簡単に、そして、綺麗にあっさりと、もしくは、すすんで騙されたのかもしれません。
ミステリーサークル(未だに信じてる人がいるんでしょうか)のように。そして、フェルマー(フェルマーの最終定理は正しかったけど、多分フェルマーも証明は出来てなかったんじゃないかと私は睨んでいます。)のように。
でも、わたしは、マリアを信じてません。
 
ここから、アンデス山脈に入っていきます。10年前と同じコースをたどるのには、訳があるのですが。
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by fuji_akiyuki | 2010-09-11 13:32 | ペルー

炒飯は料理だけど、フライドライスは料理じゃない。

ペルーに入るといろいろと食事が美味しくなって、助かっているのですが、料理の美味しい国、美味しくない国、なんとなく違いがわかってきたような気がします。
それは、例えば炒飯とフライドライスの違いなんです。

 以前にも一度書いたことがあるような気がするのでするのですが、英語のメニューって読みずらくないですか。

fried rice with chicken
fried rice with beef
fried rice with pork

chicken with vegetable
beef with vegetable
pork with vegetable

fried fish with vegetable
stir fried beef with mushroom

chicken with garlic sauce
beef with garlic sauce
pork with garlic sauce

などなど。。。
でも、どれを取ってみてもイマイチどんな料理かピンと来ないですよね。
(そして、こんな感じのメニューは外人観光客向けのレストランに多くて、そして、大抵おいしくありません。)

 何でピンと来ないこないのか、最近、ようやくわかりました。いや、いまさらですが、これ、どれをとっても全部、それが料理の名前じゃないからです。

pizza やhamburger,spagetti、lazagneなんかは分かるんですけどね。

中南米のスペイン語圏に入ってからもどうもメニューが分かりにくい。と思ってました。何でだろうってずうっと疑問でした。
 食堂には大体メニューなんて置いてありません。だから、何があるのか聞くことになるのですが、返ってくる答えは
pollo frito, carne asada, pescad frito, igado ・・・
(日本語に訳すと 揚げた鶏、焼いた肉、揚げた魚、肝臓、・・・・)

到底どんな料理か想像がつきませんよね。
特にpollo frito, carne asada, pescad frito,この当たりはどこの食堂にでもあるのですが、全くどんな味付けなのか、どんな焼き方なのか、またはあげ方なのか、何度頼んでも全然想像できないし、いつも全然違う料理が出てくるわけです。
私は旅行しているので、常に移動しています。だから、同じ名前でも地方に寄っていろいろ違うのかもしれません。だから何時までたってもどんな料理か分からないのかもしれません。
でも、“pollo frito はこういうもの”というような、共通理解のある料理というのがあんまりなかったように思います。

例えば日本だったら、カツ丼。といえば、絶対にカツ丼が出てくるわけですよね。
じゃあ、カツ丼ってどんなものかというととんかつとねぎかたまねぎを醤油と砂糖のベースのつゆで煮て、卵でとじます。(ここまでしたものをカツ煮と呼ぶそうです)そして、コレをどんぶりの飯の上に載せたもの。というベースはどこに行っても変わりませんよね。
これが、味噌で煮込んであったり、トマト煮こみであったらカツ丼とは呼びませんよね。もしくはカツ丼を頼んでそんなの出てきたら面食らいますよね。
名前からして、丼飯の上にカツが乗ってればいいんだろうって感じで、何の味付けもなしに、しかも、駄菓子屋で30円くらいで売ってる“ビッグカツ”が5分割くらいにされて丼飯の上に載せられて出てきたら怒ってどんぶり投げつけて返りますよね。(でも海外ではそんな料理は日常茶飯事的に出てきちゃうんですけど)
同じカツ丼でも普通に味噌煮込みだったり、トマト煮込みだったり、卵でとじてたり、とじてなかったり、ビッグカツだったりしたら、カツ丼ってどんな料理?ってなるわけですよね。
こうなるともうカツ丼って料理の名前じゃなくなってしまうと思いません。

fried rice は、炒飯的なものなら全部、日本の炒飯も中国の炒飯も、タイのカオパットも、マレーシアのナシゴレンも全部fried rice になっちゃうわけです。だからコレは“料理”とは呼べないですよね。
まあ、炒飯的なものって、大して幅が無いから、まだfried rice でもいいですけどね。

例えばチンジャオロース、これは中国語では青椒肉糸(糸は本当は糸偏に糸みたいな糸が2つ並んだ字なんですけど)と書いて、青椒はピーマンのことで、肉糸は細切り肉のことなんで、意味はピーマンと細切り肉、英語でそのまま書けば、meat with green pepper、青椒肉糸にはよく牛肉が使われていることや、その調理方法も加味して、stir fried beef with green pepper、と、書いたとしてもこれじゃ、ピーマンと牛肉が一緒に炒まってれば何でもいい感じですよね。
でも、青椒肉糸は中国では絶対青椒肉糸で、味も大体決まってるし、全く別の料理は出てきません。青椒肉糸で、みんながどんな料理か理解できるわけです。名前は簡単ですが、その指し示すものはしっかりそのものだけを示しているわけです。

そして、これが魚香茄子、茄子味噌、茄子の甘辛煮、マーボーナス、紅焼茄子なんかになっちゃうと、全部stir fried egg plantなんてなっちゃうわけです。
この間(この間って言っても2,3年位前だったでしょうか、)、どこかの国で、fried egg plant with garlic なんてメニューをみつけて、わたしはナスに目がないので、どんな料理が出てくるのか楽しみにして頼んだら、揚げたナスの薄切りを4枚くらいならべて、上ににんにくみじん切りを載せて出されたことがあって、ちょっと拍子抜けしてしまったことがあります。
食べてみるとまあ、悪くは無かったのですが、でも、お皿の上にナスが4枚きりって、ちょっと日本だったら、お酒のつまみの小皿以外でそんな料理ないですよね。


 つまり、“料理”とは、その内容に着いて共通理解があって、そこに名前の付がついて、はじめて、料理だといえるのではないかと思いました。
だから、英語のメニューとか、中南米あたりのスペイン語のメニューは素材と大まかな調理法が何であるかしか分かりません。
そして出てくるものはその素材で、おおまかに焼いたとか、揚げたとかだけがあってればどんな料理でもいいわけです。
言ってしまえばレストランによって、おなじpollo fritoでも、揚げた鳥か焼いた鳥が出てくれば全然別の料理が出てきてしまうわけです。
そして、何人かで食べに行ったときにどんなのが出てくるんだろうって、期待して、違うものを頼んだのに全く同じものが出てきたりするわけです。

ペルーに入ってそれが少し変わりました。
 ペルーにはロモサルタード(もしくはロモサルタッド)って言う“料理”があります。
何で“料理”なのか、なぜなら、このロモサルタードはどこで注文してもロモサルタードだからです。
どんな料理かというと、牛肉とたまねぎをちょっと濃厚なトマトソースで炒めて、フライドポテトと絡めたものです。
大体、これとごはんが一緒になって出てきます。
どこに行ってもロモサルタードはその味で、具も同じ。ぶれてないんです。もちろん、おなじロモサルタードでも店によって、美味しかったり不味かったり、肉が多かったり少なかったり、そういう違いはありますが依然ロモサルタードであることには変わりがありません。
つまり、ロモサルタードには“料理”としての共通理解があるわけです。そして、このロモサルタードを頼むと大体ハズレがありません。
でも、ペルーでもpollo frito や pescado frito, carne asada はどんな料理が出てくるか全然予想できないんですけど。

他にもペルーにはタクタク、カウカウ、アロスコンポジョ、など、“料理”があります。
アロスコンポジョなんてarroz con pollo, 英語で書けばrice with chicken,つまり、ごはんと鶏、これまた全然想像つきそうにないネーミングなんですけど、ペルーだとアロスコンポジョは絶対こうって言うスタイルがあるんです。
って言ってもそんなに大したものじゃないんですけど、でも、アロスコンポジョのごはんはどこに行っても緑色をしています。どんな味付けなのかは知りませんが絶対同じ味付けなんですよね。だから鳥とごはんを一緒に出せばいいって感じじゃなくて、アロスコンポジョは必ずアロスコンポジョなんです。
他にもタクタクは豆ご飯をフライパンで焼いたものだし、カウカウはちょっとカレーみたいな見た目の黄色い汁で煮たモツ煮込みというように、ペルーには“料理”が多いのです。

そして、考えてみると今まで美味しいと思った国には“料理”がありました。そして、美味しいものにはちゃんと“名前”がついていました。
日本はいわずもがな、中国なら魚香茄子、回鍋肉、青椒肉糸などなど、タイなら、パッタイ、カオマンガイ、プーパッポンカリー(カレーがちゃんとした料理の名前なのかどうかは疑わしいですが)とか、アフガン料理のカライーとか。

料理にちゃんとした名前のある国は美味しい。もしくは美味しいものにはちゃんと名前があるってことに気がつきました。

そして、そういう料理に名前のある国で、英語のメニューを作るなら、変に意訳せずにそのまま音をとって表記してくれたほうがありがたいと思いました。
説明は名前の横に簡単に書いておくほうがその後、他の店で同じものを頼むのにも便利ですよね。
例えばお好み焼きをjapanese pizza とかせずに、okonomiyaki(Japanese savoury pancake containing a variety of ingredients)みたいに。

ちなみにカレーというのは調べてみると“インドの香辛料を使った煮込み料理をまとめてカレーと呼び始めたのは西洋人である”のだそうです。
語源はタミル語で“食事”を意味する『カリ』という言葉がなまったというのが有力だそうですが、ウィキペディアによると“インドの香辛料を使った料理を全て「カレー」と呼ぶのは、日本料理で言えば醤油を使った煮物を全て同じ名で呼ぶような乱暴な呼び方である”
こうやって、カレーという言葉を浸透させてしまったのはインドを植民地にしていたイギリスだそうで、まず、イギリスで、インド料理がカレーとして紹介され、イギリスの会社がカレーパウダーなるものを発売して、何時の間にかインド料理が全部カレーになってしまったそうです。
でもこうなってしまうと、実際インドであれ食べたいって時になかなかその名前を知る機会を失ってしまうんですよね。

タイカレーも調べるともちろんタイカレーなんて料理は無いそうで、我々がタイカレーと呼んでいるのは“タイ語でゲーン(แกง)と呼ばれる様々な汁物の中で、香辛料の利いた、ココナッツミルク仕立ての料理の総称である。”そうで、“タイの宮廷で発祥した料理で、インドのカレー料理との直接の関連性はない。”そうですが、残念ながら、タイで大好きだったタイカレーのタイでの呼び名を知ることはありませんでした。
美味しいものはなるべくその国の言葉で、ローカルの名称で紹介して欲しいものです。そしたら、一生懸命覚えるのに。。。

 ちなみに今いる、piscoという町で、また新しい料理を発見しました。
名前はカラプルカって言うんですけど、ちょっとアカプルコに似てません?

カラプルカはたぶんトマトソースにのことで、コレをごはんやスパゲッティの上に載せて食べます。
人が食べているのを見て、あんまり美味しそうだったので、注文してみて、名前も聞いてみました。
ここまで無かったのか気がつかなかったのか知りませんが、初めて見たので、もしかしたら、piscoの名物料理かもしれません。
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by fuji_akiyuki | 2010-09-06 07:15 | ペルー