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遺跡の夜空に見たものは

地図にはpuquiosとありました。
人口500人以下の町、もしくは村、集落のマークがついていました。
アルゼンチンから、チリへ抜けるサンフランシスコ峠をこえて、最初の町、もしくは村、だと思っていたpuquiosですが、実はここ、到着して初めてわかったのですが、いまはもうだれも住んでいない遺跡でした。

標高は4300mの峠から一気に降ってすでに1000m程度までは下がっているはずなのに、チリ側は全くの砂漠で、木も全くありません。確実に街だと分かっているコピアポまで、峠から150km、ほぼすべて下りなのですが、吹き付ける向かい風は偏西風で強く、コピアポまであと60kmを残すこのpuquiosのところで、決断に迫られました。

このだれも住んでいない、何もない遺跡で、一晩を明かすか、もしかしたら、この近くにあるかもしれない同じpuquiosと言う名の町だか村を探して、先に進むか。この場合、強い西風を防ぐ場所がなければ最悪徹夜覚悟で、コピアポまで走ることになりかねません。ただ、幸いなのはその日は満月か、満月から1日だけずれているはずなので、ほぼ夜中月明かりは得られるはずであろうということは予想できました。

遺跡にはとりあえず壁はあるので、風を防いで、テントを立てることは出来そうでした。
でも、ビールはない、シャワーも浴びれない、まともなご飯にもありつけません。もう既にアルゼンチン最後の町、フィアンバラをでて、5日目だったので、もし、テントだとしてもどこか、人里にたどり着いて、ビールの一本でも飲みたいという気持ちはとても強かったのですが。。。。

まあ、いいか、明日になれば確実にコピアポにつけるし、楽しみはあとに取っておこう。
と思って、疲れてたのもあって、その日はそのpuquiosの遺跡で、テントを張ることにしました。

その夜のことです。

夜中、どうしてもトイレに行きたくなって、テントを出た私は自分の目を疑いました。
出ているはずの満月は。。。三日月?
ええ??
絶対今日は満月なはずなのに。。。。

知ってました?実はこの日、多分、12月21日未明、日本なら、22日の夕方くらいでしょうか。
皆既月食が見えたって。

私が見たのは月食がすすんで、三日月くらいになっている時でした。
日食は派手で、結構みんな意識してて、今度いつ、どこで日食が見られるなどと、話題にもよくのぼりますが、地味な月食についてはいつあるのか分からないので、ちょっと不意をつかれてしまいました。

日食と違って、月食はその時、夜であれば世界中どこででも見られる現象です。日食は新月の時しか起きない現象ですが、月食は満月の時にしか起きません。

日食は地球上で、月の陰の落ちた部分でしか、見ることができませんが、月食は地球の陰の中に月が入るので、世界中どこからでも、月が見えていれば月食を観察することができます。

私が見たのは月がもうすぐ山の陰に沈むころ、完全に月が地球の陰に入ったころだったので、ほぼ真裏に位置する日本あたりでは月が出たころ、すでに月が真暗になっていたか、もしかすると、月がだんだん地球の影から顔を出し始めたころだったかもしれません。

日食も珍しい現象ですが、皆既月食は月が暗く赤く見えるやっぱりちょっと珍しい現象です。
月食の時、月が真っ暗にならずに赤く見えるのは太陽光の回折や大気による屈折などによって、地球を回り込んだ光が月に届くからだそうです。

三日月がだんだん細くなって、月の残りの部分がだんだん赤く見え始めてきた時、この事実に思い当たりました。初めはどんな天変地異かと思いました。


こんな現象が見られたのも遺跡でテントを張ったおかげでした。

サンフランシスコ峠は上りに2日半。下りに3日半もかかる峠でした。
アルゼンチン側は全部舗装路で、途中6個所に避難小屋があって、風、日差し、寒さをしのぐことができるようになっていて、中はテントを張れるくらいのスペースもあって、煖炉もありました。薪はあったり無かったりですが。

結局この避難小屋で夜を明かすことはなかったのですが、休憩はよくここを利用していました。

2泊目は4760mのサンフランシスコ峠の手前20kmにあるアルゼンチン側イミグレで泊まりました。明けて3日目。この日から大変だったのですが。

20kmを3時間くらいかけて上って、サンフランシスコ峠到着。ここまでは予定通りでした。
でもここから、110km先のチリ側のイミグレまで、自分の持っている資料では何もありません。風は強く、夜は寒く、風を防ぐものがなければテントを立てるのもままなりません。
峠を越えたのだから、もう楽になるのかと思ったら、道はダート道になり、とんでもなく走りにくくなりました。
とても100kmも走れません。

でも、10kmほど行くと目の醒めるような鮮やかな碧い、ちょっと緑がかった、深い青の湖がありました。
ラグーナベルデです。ボリビアで見たものより全然きれいな色をしていました。そして、景色を楽しむ余裕も今回の私にはありました。

そして、幸いなことに、そのラグーナベルデの辺に登山管理事務所のプレハブとキャンプ場がありました。
風を防げるようにサイトの風上側に石が積み上げられています。そして、なんと、温泉もありました。


この温泉で、今日はここにテントを張ろうと決めました。
湯殿は3つありました。1つはぬるくて入れないくらいで、もう一つは10分も入ればのぼせそうなちょっと熱いお湯。最後の一つはちょうど良くて、長湯のできるようなちょっとぬる目のお湯で、昼過ぎに到着した私はこのぬる目のお湯につかりながら、目の醒めるような鮮やかな湖を長いこと眺めていました。
そしたら、背中が焼けてしまいました。

これは夜もいけるだろうと思って、夜になるのを待って、ここぞとばかりに一番熱いお湯に飛び込んだのですが、これが全然あったかくありません。ひと肌くらい。全然あったまりません。
多分、源泉の湯量が少ないせいだと思うのですが、夜はお湯の供給量が外気に冷やされる熱量に負けているのかもしれません。
きれいな湖を前に標高4500の露天風呂。これほどいい温泉はないんですけど。残念でした。

翌日もダート道。朝から向かい風マックスでなんだか一番つらい1日になってしまいました。
チリ側は石と砂と風しかない世界でした。生きるものも全くいない、植物すらありませんでした。
でも、ものすごくきれいな山の連続でした。
しろ、黒、茶色、赤、黄、緑、オレンジなどなど、青意外の色ならなんでもありです。まるで筆で書いたようなカラフルな山、色の多さにびっくりしました。青は湖と空にありました。

あの、ボリビアのラグーナベルデの時ほど、辛くなかったので、ちょっと心に余裕がありました。景色を楽しむだけの余裕がありました。
でも、風にはやっぱりちょっと恐怖心がありました。

この峠を越える前、実は一度、砂嵐に遭って、バスで逃げ出したことがあります。
このサンフランシスコ峠の前に越えた、パソシコ(paso sico)も風は強かったのですが、どうにか恐怖を感じずに越えてくることができたので、結構行けるんじゃないかと思い出していた矢先だったのですが。

パソシコを越えて、サンフランシスコ峠のふもと、フィアンバラまで、消化試合的な感覚の簡単な移動になると思っていたところで、とんでもない強風に吹かれてしまいました。
風だけでなく、砂が舞って、砂や小石が体や顔に容赦なく吹き付けてきて、視界が効かなくなってきた時、言いようもない恐怖に襲われて、ああ、これはダメだと思って、引き返しました。
引き返すと追い風になるので、進むのは楽になり、2kmほど行ったところに小屋があることは知っていたので、その小屋の陰に隠れて、風をしのいでいました。

小屋は厳重にカギがかかっていたので、入ることはできませんでした。でも四角い小屋の陰では斜めから風が吹いてくると逃げ場がなくなります。そこで一晩明かせば翌日の朝は風が収まっているかもしれません。
特にこの辺は午後に風が強くなる傾向にあるので、その可能性は十分にありました。
でも、小屋の陰に逃げ込んだのはまだ午後2時半くらいでした。夜まで、まだまだ時間もあるし、今はこの小屋の陰で、風がしのげているけど、いつ風向きが変わるか分かりません。

小屋の中はなんて言うこともない、キリスト像があって簡単な教会みたいにお祈りができるようなベンチが2つ、そして、花とか、お酒の瓶とか、お供物があるだけでした。

そんな小屋なら避難小屋みたいに入れるようにしておけばいいのに。

どうしようもなくなったらこの小屋にどうにか入ろうとして、いろいろ思案してみると、鉄格子を一本抜けばどうにかなりそうでした。そして、そうなった時にすぐに入れるように格子に細工をしている時に通り掛かったバスに飛び乗って、次の町まで逃げてしまいました。

その時の砂嵐から、サンフランシスコ峠を越える時は風が吹き出すたびに、またあんな砂嵐にならないだろうか、と恐怖が頭から離れません。

風恐怖症?そんなのあるんでしょうか。でもどうも最近風に苦手意識ができてしまいました。
これから風の大地、パタゴニアに向かうというのに。今から大丈夫か心配です。
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by fuji_akiyuki | 2010-12-28 03:40 | チリ・アルゼンチン

必見!!カファジャテ宿情報

アルゼンチンのカファジャテという町にいい宿があります。
フェルナンドとエマという夫婦の経営するその名も
Cafayate Backpackers Hostel
住所 Cordoba 155
町の真ん中の広場から、2ブロック東へ、1ブロック半、南へ行きます。
セントロから徒歩3分の距離です。
そのままの名前ですが、これがなかなか見つかりません。
住所まで行っても全く看板も何も出てません。
でも、ドミトリー25ペソ、キッチン、朝食付。
テントを持っていると庭でキャンプもできて、それだと15ペソです。

paso sicoを越え、続けて南米大陸最高の4895mの峠、アカイ峠(abra acay)をこえて、ちょっとゆっくりしたかったので、安くて、キッチンの使える宿を探していました。
カファジャテは小さな町ですが、観光地なので、結構どこも宿代が高くて、なかなかいい宿が見つかりませんでした。

観光案内所にきいて、いろんな人に聞いて何軒か当たってもなかなかいい宿が見つからず、町を走り回っている時に見つけたユースホステルの看板を頼りにたどり着いた宿でした。

アルゼンチンは外食すると高いので、おいしいものを作るなら、自分で作るしかない、と思って、キッチン付の宿を探していました。
だから、わたしはその宿について、毎日、毎食キッチンを使って料理をしていました。
日差しにやられた唇と目が良くなるまで、3、4泊しようと思って、チェックインをしたのですが、目と唇の調子から、これはあと2泊はしなきゃだダメかなと思ったのが、2泊したてか3日目でした。
あと2泊するなら、と思って、いろいろと食材を買い込んで、夕食の用意をしている時でした。
エマが"あなたはいつも料理してガスをいっぱい使っているからガス代を払いなさい"
って言われました。

私はもちろん怒って絶対払わないと突っぱねました。
まだ宿代は払ってませんでした。実際に支払いの時にガス台を請求されてても、絶対払わないつもりでした。
たしかに、キッチンにはなるべく調理時間は短くとは書いてあるけど、いきなりガス代を請求されるとは思いませんでした。
そんなことされても納得できませんでした。

でもあと2泊分、食材は買ってしまったし、キッチン使わないとどうしようもありません。
最初にキッチンが使えると聞いてチェックインしたんだし、こんな騙し討みたいなのに負けてたまるか。って思って、エマを無視しました。

その夜は宿で、バーベキューを催していました。

最初は宿の雰囲気も良いし、ちょっと参加してみようかと思ってたのですが、エマとの一件があって、そんな気持ちにもなれなくなって、ドミで寝てしまいました。

翌日、次の日に出るので、この日の夕方に宿代を清算しようと思いながら、でも、食材もあったので、私はエマを無視してキッチンを使い続けました。

エマの夫であるフェルナンドはそんな事があったあとも私には以前と変わらず感じよく接してくれますが、何といってもエマの夫です。昨日の話は絶対に伝わっているはずで、宿代を払う時にはガス代も請求されるかもしれない、と警戒していました。

その日は1日そのことばかりが気になって、ちょっと落ち込んでいました。
でも、ガス代のことでトラブルになるのも嫌だったし、夜までエマとも、フェルナンドともほとんど話をしないようにしていました。

そして夜、エマとは直接やり合ったので、フェルナンドに宿台を払いに行きました。
私はお釣りのないように4泊分、フェルナンドに渡すと、フェルナンドはガス代のことなどおくびにもださずに、彼は快く私の差し出した100ペソを受け取ってくれました。

ああよかった。とドミで明日の準備をしていると、フェルナンドがやって来ました。
もしかして、ガス代のことをいいに来たのかなと、ちょっと構えてしまいました。
でもフェルナンドはひと袋の干しブドウを差し出して、
"自転車で走って、疲れたら、これを食べて少し休んで、また走れば良い。"

なぜ?
私はまず疑問に思いました。
どちらかと言うと、フェルナンドもたくさんキッチンを使う私をよく思ってないんじゃないかと思ってました。
突然のフェルナンドからのプレゼントでした。
そして、一言、"これは私たち家族からだ"
と言い残して、私を送り出してくれました。

フェルナンドは私とエマとの一件を知らないはずはありません。
でも彼はそんなこと全く感じさせずに、ただ、私に干しブドウをひと袋くれて、送り出してくれました。
ちょっとしたフェルナンドの優しさだったのかもしれません。
1日、落ち込んでいた私には、心に染み渡る優しさでした。
落ち込んでいる時の小さな優しさ程、救われるものはないんじゃないかと思いました。
この宿の雰囲気がいいのもそんなフェルナンドの人柄なのかもしれません。


落ち込んでいた私を救ってくれたフェルナンドの優しさに何かお返しをしたくても、私にできるのはこのくらいです。
だから、フェルナンドの宿を宣伝します。

カファジャテにはいい宿があります。
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by fuji_akiyuki | 2010-12-23 06:11 | チリ・アルゼンチン

追いかけてきたものは…

白馬でした。

自転車を乗っている私を後ろから、白い馬が追いかけてきます。
でも、これは、全然のどかな風景ではなく、私は恐怖にすくみあがり、必至に逃げているのです。
なぜなら、この馬、何か様子が違います。

ポッカリと開いた2つの眼窩には眼球がなく、どこも見ていないはずのその眼窩は、しっかりと私を見据えて、口を半開きにして、私を後ろから追いかけてきます。

こんな夢を見たのは前日、そんな馬の屍骸を目撃したからでした。
まだ新鮮そのものに見えるその屍骸は遠目には生きている馬が寝ているのか?と思うほどでした、でも馬ってこんな横倒しに寝るんだろうか。そんな疑問が頭を横切るほど、その屍骸は死んでると思わせないほどの新鮮さでした。
でも、近づいてみると確かにその馬は死んでいて、すでに目を食い破られて、眼球のない眼窩が空を見つめていました。

ほかはほとんど損傷なく、目だけない馬の屍は不気味で、なにか、死神を見たような嫌な気持ちになりました。

これは、パソシコ(paso sico)という、チリのサンペドロアタカマから、アルゼンチンのサンアントニオコブレスに向かう峠を越えている途中でした。

エルラコ(El laco)という、4000mを超える、山頂は5000mにとどくかという鉱山の管理事務所で、たった一人、オフシーズン中の管理を任された齢68のガルバリーノは、水をもらおうと立ち寄った私を管理事務所に2泊も泊めてくれました。

ガルバリーノは毎朝、自分で小麦粉と水を混ぜて、パンを焼きます。そしてをれを私にも分けてくれて一緒に食事をしました。夜は私が何か適当に作ったように思います。ガルバリーノも日本食は食べたことがないといって喜んでくれました。

あと何カ月かで、交代用員がくれば、晴れて御役御免となり、家族の元に帰れるんだと、よく家族の写真を見せられました。

そんなガルバリーノのいる、エルラコを出た日でした。
エルラコをでて、峠を2つほど越えて、パソシコを通過するとアルゼンチン側のイミグレがあるのですが、朝から風が強く、焦っていた私は峠を越えたあと、もう早く山をおりたい一心で、本当はスピードを抑えて下らなければいけないような石のゴツゴツしたダートの下りを下るに任せてもうスピードで、下ってしまいました。
その結果、パンクしたばかりか、リム(タイヤのはまっている金属の輪っか)を破損してしまいました。
破損したといっても、リムを地面に出ている石に強く打ちつけてしまって、リムが少し広がってしまった位でしたが、乗り心地は随分悪くなってしまいました。

そのあと、イミグレを通り、アルゼンチンに入り、身の毛もよだつような馬の死骸を目撃したのでした。

この日は長い1日で、イミグレを出てから、広大な大地をどこまでも走っても、岩陰すら見つけることができず、風は吹きっさらしで、自転車は壊れるし、気持ちは焦るばっかりでした。イミグレを過ぎてから、平坦だけど悪路が長く続いて、その後はゆるやかだけど上りがこれまた長く続きました。自転車は思うように進まず、時間だけが過ぎていきます。永遠に続くかと思えた上りが終わると、今度は緩やかですが、道は下りに転じました。でも道は相変わらず悪く時には砂にハマってしまいます。


もう日は西に傾き、そろそろ本気で、テントを立てるところが見つからないと今晩死ぬんじゃないかと思っている時でした。

10棟ほどの集落を遠く前方に発見しました。助かった、どこかにテントを立てさせてもらおう。うまく行けば物置にでも寝させてくれるかもしれない。

とおもって、喜び勇んで、集落に急いだのですが。。。
残念ながらその集落には全く人がいませんでした。
でも、どこかの家の陰とかにテントを張れば何とか風は防げるかもしれません。
でもできればコの字型とか、L字型の壁の中とかが好ましいものです。建物の中なら、文句ありません。
そう思って、集落の建物をひとつひとつ、どこか忍び込めないものかと点検していくと、集落の中でも一番ましな、役所か、警察の建物みたいな、しっかりした建物の正面の扉が針金で簡単に結び付けられているだけなのをまっ先に発見しました。

これはちょっと、ここをちょちょいとこうしたら開くんじゃないの。。。
とやってみると簡単に、開いてしまいました。

今日はとりあえずここに忍び込もう、だけかが来たら、風がすごかったから避難したんだと言えばまあ、大きな問題にはならないかもしれないし。とにかく、安心して眠れるところがいい。

そう思って、忍び込んだ建物は最初の部屋の左奥の隅に煖炉がありました。もちろん、火はついてませんが、煖炉のうえにクラッカーが乗ってました。袋は開けられているものの、半分以上残っていました。

いつのものかは分かりません、誰のものかも分かりません。でも、私はとてもおなかが空いていました。
きっと、湿気ってるだろうなと思いながらも、エイッと1枚口にほうり込んでみました。
。。。
。。。

サクッ

え、おいしい。。。

結局全部食べてしまいました。

煖炉の横の扉は最初の部屋の左に位置する部屋に通じていました。何もなくて、ちょうどテントが立てられるくらいの大きさの部屋でした。

ここだ。

と思って、私はそこにテントを立てて、キャンプ用の火器で、ご飯を炊き、夕食を済ますと、勝手に建物に侵入したことをちょっとだけ後ろめたく思いながら眠りについたのでした。

そんな精神状態だったから、きっと馬に追いかけられる夢を見たのでしょう。






あれから10年。

私は同じパソシコをこえました。
ラグーナベルでまでの道のりは前回書いたように非常につらく苦しいものだっただけに、10年前、一番つらかったこのパソシコも精神的に余裕を持って越えることができました。
覚えているところもあれば全然覚えてないところもありました。どちらかというと覚えていないところの方がほとんどでした。

でも、馬の夢を見たあの建物は忘れることができませんでした。
実はそれがどこにあるのか、何日目だったのか、全然覚えていなかったのですが。。。

10年たって、その建物を発見しました。10年前のあの日は今考えると、悪路と強風の中を峠と峠らしきところを3つも越えて、90km位走っていたことになります。

今回は最初から、泊まる場所をずらしていたので、エルラコに昼間についたので、エルラコには泊まらずにアルゼンチン側のイミグレまで走ってそこで泊めてもらいました。
だから、10年前に泊まった件の建物まではイミグレから50kmで到着したのですが、10年前はエルラコからそこまで走っているので、つらい1日だったはずです。


10年経って、件の建物は見事なほど完全に屋根が落ち、窓とドアはことごとく全てなくなっていました。
壁もところどころ崩れ、いまではテントを立てるのも、心もとない頼りなさでした。
あの煖炉は半壊し、テントを立てた部屋も落ちた屋根の残がいか、石や土砂が積もり、3分の2ほどがガレキで埋まり、残りはトイレになってました。

煖炉を前にした時、あのクラッカーの袋がフラッシュバックしてきて、10年の歳月を感じ、なんか突然感傷的な気分になってしまいました。


10年前、この建物を出て、10kmほどで、人の住む、普通の町、いや、村にたどり着いたことを覚えていたので、今回はそこまで走りました。
あの時はあと10km頑張ってればとちょっと悔しい思いをしたので覚えていた村でした。

そこから、60km最後の峠を越えてサンアントニオデコブレスという町に至ります。ここはガイドブックにも載っている、まあ、まともな町ですが、そこで、ひとりのサイクリストのおじさんと同じ宿になりました。
このおじさん、ここから、最初、私が行こうとしていた、サラルデオンブレムエルト(男の死の塩湖)方面に行くと言ってました。

この道は下手すると、ラグーナベルデよりも辛くなるかもしれないと、私は避けてしまったところにこれから行こうという人が現れたのでした。

ちょっと羨ましくも思い、ついて行こうかとすら思ったのですが、さっき越えてきた最後の峠をまた越えて、あの建物まで戻らなければなりません。そこから、さらにつらそうな道に入っていくのです。やっぱり考えただけで気が遠くなりそうだったので、やめてしまいました。

その代わり、南米最高の峠、アブラアカイ(アカイ峠、4895m)をこえて来ました。サンアントニオがすでに3700mということで、この峠は南米最高といっても、こっちから越えるのはそんなに大変じゃありませんでした。

いまは、サンフランシスコ峠という峠を越えて、チリ側に戻ろうとしています。あと3回。アンデスを越える予定です。
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by fuji_akiyuki | 2010-12-13 09:36 | チリ・アルゼンチン