goutou ni atte ookega? wo shimashita
yubi no hone wo orareta node umaku kakemasen kon na koto de maketakunai...... kuyashii #
by fuji_akiyuki
| 2011-01-05 10:31
| チリ・アルゼンチン
地図にはpuquiosとありました。
人口500人以下の町、もしくは村、集落のマークがついていました。 アルゼンチンから、チリへ抜けるサンフランシスコ峠をこえて、最初の町、もしくは村、だと思っていたpuquiosですが、実はここ、到着して初めてわかったのですが、いまはもうだれも住んでいない遺跡でした。 標高は4300mの峠から一気に降ってすでに1000m程度までは下がっているはずなのに、チリ側は全くの砂漠で、木も全くありません。確実に街だと分かっているコピアポまで、峠から150km、ほぼすべて下りなのですが、吹き付ける向かい風は偏西風で強く、コピアポまであと60kmを残すこのpuquiosのところで、決断に迫られました。 このだれも住んでいない、何もない遺跡で、一晩を明かすか、もしかしたら、この近くにあるかもしれない同じpuquiosと言う名の町だか村を探して、先に進むか。この場合、強い西風を防ぐ場所がなければ最悪徹夜覚悟で、コピアポまで走ることになりかねません。ただ、幸いなのはその日は満月か、満月から1日だけずれているはずなので、ほぼ夜中月明かりは得られるはずであろうということは予想できました。 遺跡にはとりあえず壁はあるので、風を防いで、テントを立てることは出来そうでした。 でも、ビールはない、シャワーも浴びれない、まともなご飯にもありつけません。もう既にアルゼンチン最後の町、フィアンバラをでて、5日目だったので、もし、テントだとしてもどこか、人里にたどり着いて、ビールの一本でも飲みたいという気持ちはとても強かったのですが。。。。 まあ、いいか、明日になれば確実にコピアポにつけるし、楽しみはあとに取っておこう。 と思って、疲れてたのもあって、その日はそのpuquiosの遺跡で、テントを張ることにしました。 その夜のことです。 夜中、どうしてもトイレに行きたくなって、テントを出た私は自分の目を疑いました。 出ているはずの満月は。。。三日月? ええ?? 絶対今日は満月なはずなのに。。。。 知ってました?実はこの日、多分、12月21日未明、日本なら、22日の夕方くらいでしょうか。 皆既月食が見えたって。 私が見たのは月食がすすんで、三日月くらいになっている時でした。 日食は派手で、結構みんな意識してて、今度いつ、どこで日食が見られるなどと、話題にもよくのぼりますが、地味な月食についてはいつあるのか分からないので、ちょっと不意をつかれてしまいました。 日食と違って、月食はその時、夜であれば世界中どこででも見られる現象です。日食は新月の時しか起きない現象ですが、月食は満月の時にしか起きません。 日食は地球上で、月の陰の落ちた部分でしか、見ることができませんが、月食は地球の陰の中に月が入るので、世界中どこからでも、月が見えていれば月食を観察することができます。 私が見たのは月がもうすぐ山の陰に沈むころ、完全に月が地球の陰に入ったころだったので、ほぼ真裏に位置する日本あたりでは月が出たころ、すでに月が真暗になっていたか、もしかすると、月がだんだん地球の影から顔を出し始めたころだったかもしれません。 日食も珍しい現象ですが、皆既月食は月が暗く赤く見えるやっぱりちょっと珍しい現象です。 月食の時、月が真っ暗にならずに赤く見えるのは太陽光の回折や大気による屈折などによって、地球を回り込んだ光が月に届くからだそうです。 三日月がだんだん細くなって、月の残りの部分がだんだん赤く見え始めてきた時、この事実に思い当たりました。初めはどんな天変地異かと思いました。 こんな現象が見られたのも遺跡でテントを張ったおかげでした。 サンフランシスコ峠は上りに2日半。下りに3日半もかかる峠でした。 アルゼンチン側は全部舗装路で、途中6個所に避難小屋があって、風、日差し、寒さをしのぐことができるようになっていて、中はテントを張れるくらいのスペースもあって、煖炉もありました。薪はあったり無かったりですが。 結局この避難小屋で夜を明かすことはなかったのですが、休憩はよくここを利用していました。 2泊目は4760mのサンフランシスコ峠の手前20kmにあるアルゼンチン側イミグレで泊まりました。明けて3日目。この日から大変だったのですが。 20kmを3時間くらいかけて上って、サンフランシスコ峠到着。ここまでは予定通りでした。 でもここから、110km先のチリ側のイミグレまで、自分の持っている資料では何もありません。風は強く、夜は寒く、風を防ぐものがなければテントを立てるのもままなりません。 峠を越えたのだから、もう楽になるのかと思ったら、道はダート道になり、とんでもなく走りにくくなりました。 とても100kmも走れません。 でも、10kmほど行くと目の醒めるような鮮やかな碧い、ちょっと緑がかった、深い青の湖がありました。 ラグーナベルデです。ボリビアで見たものより全然きれいな色をしていました。そして、景色を楽しむ余裕も今回の私にはありました。 そして、幸いなことに、そのラグーナベルデの辺に登山管理事務所のプレハブとキャンプ場がありました。 風を防げるようにサイトの風上側に石が積み上げられています。そして、なんと、温泉もありました。 この温泉で、今日はここにテントを張ろうと決めました。 湯殿は3つありました。1つはぬるくて入れないくらいで、もう一つは10分も入ればのぼせそうなちょっと熱いお湯。最後の一つはちょうど良くて、長湯のできるようなちょっとぬる目のお湯で、昼過ぎに到着した私はこのぬる目のお湯につかりながら、目の醒めるような鮮やかな湖を長いこと眺めていました。 そしたら、背中が焼けてしまいました。 これは夜もいけるだろうと思って、夜になるのを待って、ここぞとばかりに一番熱いお湯に飛び込んだのですが、これが全然あったかくありません。ひと肌くらい。全然あったまりません。 多分、源泉の湯量が少ないせいだと思うのですが、夜はお湯の供給量が外気に冷やされる熱量に負けているのかもしれません。 きれいな湖を前に標高4500の露天風呂。これほどいい温泉はないんですけど。残念でした。 翌日もダート道。朝から向かい風マックスでなんだか一番つらい1日になってしまいました。 チリ側は石と砂と風しかない世界でした。生きるものも全くいない、植物すらありませんでした。 でも、ものすごくきれいな山の連続でした。 しろ、黒、茶色、赤、黄、緑、オレンジなどなど、青意外の色ならなんでもありです。まるで筆で書いたようなカラフルな山、色の多さにびっくりしました。青は湖と空にありました。 あの、ボリビアのラグーナベルデの時ほど、辛くなかったので、ちょっと心に余裕がありました。景色を楽しむだけの余裕がありました。 でも、風にはやっぱりちょっと恐怖心がありました。 この峠を越える前、実は一度、砂嵐に遭って、バスで逃げ出したことがあります。 このサンフランシスコ峠の前に越えた、パソシコ(paso sico)も風は強かったのですが、どうにか恐怖を感じずに越えてくることができたので、結構行けるんじゃないかと思い出していた矢先だったのですが。 パソシコを越えて、サンフランシスコ峠のふもと、フィアンバラまで、消化試合的な感覚の簡単な移動になると思っていたところで、とんでもない強風に吹かれてしまいました。 風だけでなく、砂が舞って、砂や小石が体や顔に容赦なく吹き付けてきて、視界が効かなくなってきた時、言いようもない恐怖に襲われて、ああ、これはダメだと思って、引き返しました。 引き返すと追い風になるので、進むのは楽になり、2kmほど行ったところに小屋があることは知っていたので、その小屋の陰に隠れて、風をしのいでいました。 小屋は厳重にカギがかかっていたので、入ることはできませんでした。でも四角い小屋の陰では斜めから風が吹いてくると逃げ場がなくなります。そこで一晩明かせば翌日の朝は風が収まっているかもしれません。 特にこの辺は午後に風が強くなる傾向にあるので、その可能性は十分にありました。 でも、小屋の陰に逃げ込んだのはまだ午後2時半くらいでした。夜まで、まだまだ時間もあるし、今はこの小屋の陰で、風がしのげているけど、いつ風向きが変わるか分かりません。 小屋の中はなんて言うこともない、キリスト像があって簡単な教会みたいにお祈りができるようなベンチが2つ、そして、花とか、お酒の瓶とか、お供物があるだけでした。 そんな小屋なら避難小屋みたいに入れるようにしておけばいいのに。 どうしようもなくなったらこの小屋にどうにか入ろうとして、いろいろ思案してみると、鉄格子を一本抜けばどうにかなりそうでした。そして、そうなった時にすぐに入れるように格子に細工をしている時に通り掛かったバスに飛び乗って、次の町まで逃げてしまいました。 その時の砂嵐から、サンフランシスコ峠を越える時は風が吹き出すたびに、またあんな砂嵐にならないだろうか、と恐怖が頭から離れません。 風恐怖症?そんなのあるんでしょうか。でもどうも最近風に苦手意識ができてしまいました。 これから風の大地、パタゴニアに向かうというのに。今から大丈夫か心配です。 #
by fuji_akiyuki
| 2010-12-28 03:40
| チリ・アルゼンチン
アルゼンチンのカファジャテという町にいい宿があります。
フェルナンドとエマという夫婦の経営するその名も Cafayate Backpackers Hostel 住所 Cordoba 155 町の真ん中の広場から、2ブロック東へ、1ブロック半、南へ行きます。 セントロから徒歩3分の距離です。 そのままの名前ですが、これがなかなか見つかりません。 住所まで行っても全く看板も何も出てません。 でも、ドミトリー25ペソ、キッチン、朝食付。 テントを持っていると庭でキャンプもできて、それだと15ペソです。 paso sicoを越え、続けて南米大陸最高の4895mの峠、アカイ峠(abra acay)をこえて、ちょっとゆっくりしたかったので、安くて、キッチンの使える宿を探していました。 カファジャテは小さな町ですが、観光地なので、結構どこも宿代が高くて、なかなかいい宿が見つかりませんでした。 観光案内所にきいて、いろんな人に聞いて何軒か当たってもなかなかいい宿が見つからず、町を走り回っている時に見つけたユースホステルの看板を頼りにたどり着いた宿でした。 アルゼンチンは外食すると高いので、おいしいものを作るなら、自分で作るしかない、と思って、キッチン付の宿を探していました。 だから、わたしはその宿について、毎日、毎食キッチンを使って料理をしていました。 日差しにやられた唇と目が良くなるまで、3、4泊しようと思って、チェックインをしたのですが、目と唇の調子から、これはあと2泊はしなきゃだダメかなと思ったのが、2泊したてか3日目でした。 あと2泊するなら、と思って、いろいろと食材を買い込んで、夕食の用意をしている時でした。 エマが"あなたはいつも料理してガスをいっぱい使っているからガス代を払いなさい" って言われました。 私はもちろん怒って絶対払わないと突っぱねました。 まだ宿代は払ってませんでした。実際に支払いの時にガス台を請求されてても、絶対払わないつもりでした。 たしかに、キッチンにはなるべく調理時間は短くとは書いてあるけど、いきなりガス代を請求されるとは思いませんでした。 そんなことされても納得できませんでした。 でもあと2泊分、食材は買ってしまったし、キッチン使わないとどうしようもありません。 最初にキッチンが使えると聞いてチェックインしたんだし、こんな騙し討みたいなのに負けてたまるか。って思って、エマを無視しました。 その夜は宿で、バーベキューを催していました。 最初は宿の雰囲気も良いし、ちょっと参加してみようかと思ってたのですが、エマとの一件があって、そんな気持ちにもなれなくなって、ドミで寝てしまいました。 翌日、次の日に出るので、この日の夕方に宿代を清算しようと思いながら、でも、食材もあったので、私はエマを無視してキッチンを使い続けました。 エマの夫であるフェルナンドはそんな事があったあとも私には以前と変わらず感じよく接してくれますが、何といってもエマの夫です。昨日の話は絶対に伝わっているはずで、宿代を払う時にはガス代も請求されるかもしれない、と警戒していました。 その日は1日そのことばかりが気になって、ちょっと落ち込んでいました。 でも、ガス代のことでトラブルになるのも嫌だったし、夜までエマとも、フェルナンドともほとんど話をしないようにしていました。 そして夜、エマとは直接やり合ったので、フェルナンドに宿台を払いに行きました。 私はお釣りのないように4泊分、フェルナンドに渡すと、フェルナンドはガス代のことなどおくびにもださずに、彼は快く私の差し出した100ペソを受け取ってくれました。 ああよかった。とドミで明日の準備をしていると、フェルナンドがやって来ました。 もしかして、ガス代のことをいいに来たのかなと、ちょっと構えてしまいました。 でもフェルナンドはひと袋の干しブドウを差し出して、 "自転車で走って、疲れたら、これを食べて少し休んで、また走れば良い。" なぜ? 私はまず疑問に思いました。 どちらかと言うと、フェルナンドもたくさんキッチンを使う私をよく思ってないんじゃないかと思ってました。 突然のフェルナンドからのプレゼントでした。 そして、一言、"これは私たち家族からだ" と言い残して、私を送り出してくれました。 フェルナンドは私とエマとの一件を知らないはずはありません。 でも彼はそんなこと全く感じさせずに、ただ、私に干しブドウをひと袋くれて、送り出してくれました。 ちょっとしたフェルナンドの優しさだったのかもしれません。 1日、落ち込んでいた私には、心に染み渡る優しさでした。 落ち込んでいる時の小さな優しさ程、救われるものはないんじゃないかと思いました。 この宿の雰囲気がいいのもそんなフェルナンドの人柄なのかもしれません。 落ち込んでいた私を救ってくれたフェルナンドの優しさに何かお返しをしたくても、私にできるのはこのくらいです。 だから、フェルナンドの宿を宣伝します。 カファジャテにはいい宿があります。 #
by fuji_akiyuki
| 2010-12-23 06:11
| チリ・アルゼンチン
白馬でした。
自転車を乗っている私を後ろから、白い馬が追いかけてきます。 でも、これは、全然のどかな風景ではなく、私は恐怖にすくみあがり、必至に逃げているのです。 なぜなら、この馬、何か様子が違います。 ポッカリと開いた2つの眼窩には眼球がなく、どこも見ていないはずのその眼窩は、しっかりと私を見据えて、口を半開きにして、私を後ろから追いかけてきます。 こんな夢を見たのは前日、そんな馬の屍骸を目撃したからでした。 まだ新鮮そのものに見えるその屍骸は遠目には生きている馬が寝ているのか?と思うほどでした、でも馬ってこんな横倒しに寝るんだろうか。そんな疑問が頭を横切るほど、その屍骸は死んでると思わせないほどの新鮮さでした。 でも、近づいてみると確かにその馬は死んでいて、すでに目を食い破られて、眼球のない眼窩が空を見つめていました。 ほかはほとんど損傷なく、目だけない馬の屍は不気味で、なにか、死神を見たような嫌な気持ちになりました。 これは、パソシコ(paso sico)という、チリのサンペドロアタカマから、アルゼンチンのサンアントニオコブレスに向かう峠を越えている途中でした。 エルラコ(El laco)という、4000mを超える、山頂は5000mにとどくかという鉱山の管理事務所で、たった一人、オフシーズン中の管理を任された齢68のガルバリーノは、水をもらおうと立ち寄った私を管理事務所に2泊も泊めてくれました。 ガルバリーノは毎朝、自分で小麦粉と水を混ぜて、パンを焼きます。そしてをれを私にも分けてくれて一緒に食事をしました。夜は私が何か適当に作ったように思います。ガルバリーノも日本食は食べたことがないといって喜んでくれました。 あと何カ月かで、交代用員がくれば、晴れて御役御免となり、家族の元に帰れるんだと、よく家族の写真を見せられました。 そんなガルバリーノのいる、エルラコを出た日でした。 エルラコをでて、峠を2つほど越えて、パソシコを通過するとアルゼンチン側のイミグレがあるのですが、朝から風が強く、焦っていた私は峠を越えたあと、もう早く山をおりたい一心で、本当はスピードを抑えて下らなければいけないような石のゴツゴツしたダートの下りを下るに任せてもうスピードで、下ってしまいました。 その結果、パンクしたばかりか、リム(タイヤのはまっている金属の輪っか)を破損してしまいました。 破損したといっても、リムを地面に出ている石に強く打ちつけてしまって、リムが少し広がってしまった位でしたが、乗り心地は随分悪くなってしまいました。 そのあと、イミグレを通り、アルゼンチンに入り、身の毛もよだつような馬の死骸を目撃したのでした。 この日は長い1日で、イミグレを出てから、広大な大地をどこまでも走っても、岩陰すら見つけることができず、風は吹きっさらしで、自転車は壊れるし、気持ちは焦るばっかりでした。イミグレを過ぎてから、平坦だけど悪路が長く続いて、その後はゆるやかだけど上りがこれまた長く続きました。自転車は思うように進まず、時間だけが過ぎていきます。永遠に続くかと思えた上りが終わると、今度は緩やかですが、道は下りに転じました。でも道は相変わらず悪く時には砂にハマってしまいます。 もう日は西に傾き、そろそろ本気で、テントを立てるところが見つからないと今晩死ぬんじゃないかと思っている時でした。 10棟ほどの集落を遠く前方に発見しました。助かった、どこかにテントを立てさせてもらおう。うまく行けば物置にでも寝させてくれるかもしれない。 とおもって、喜び勇んで、集落に急いだのですが。。。 残念ながらその集落には全く人がいませんでした。 でも、どこかの家の陰とかにテントを張れば何とか風は防げるかもしれません。 でもできればコの字型とか、L字型の壁の中とかが好ましいものです。建物の中なら、文句ありません。 そう思って、集落の建物をひとつひとつ、どこか忍び込めないものかと点検していくと、集落の中でも一番ましな、役所か、警察の建物みたいな、しっかりした建物の正面の扉が針金で簡単に結び付けられているだけなのをまっ先に発見しました。 これはちょっと、ここをちょちょいとこうしたら開くんじゃないの。。。 とやってみると簡単に、開いてしまいました。 今日はとりあえずここに忍び込もう、だけかが来たら、風がすごかったから避難したんだと言えばまあ、大きな問題にはならないかもしれないし。とにかく、安心して眠れるところがいい。 そう思って、忍び込んだ建物は最初の部屋の左奥の隅に煖炉がありました。もちろん、火はついてませんが、煖炉のうえにクラッカーが乗ってました。袋は開けられているものの、半分以上残っていました。 いつのものかは分かりません、誰のものかも分かりません。でも、私はとてもおなかが空いていました。 きっと、湿気ってるだろうなと思いながらも、エイッと1枚口にほうり込んでみました。 。。。 。。。 サクッ え、おいしい。。。 結局全部食べてしまいました。 煖炉の横の扉は最初の部屋の左に位置する部屋に通じていました。何もなくて、ちょうどテントが立てられるくらいの大きさの部屋でした。 ここだ。 と思って、私はそこにテントを立てて、キャンプ用の火器で、ご飯を炊き、夕食を済ますと、勝手に建物に侵入したことをちょっとだけ後ろめたく思いながら眠りについたのでした。 そんな精神状態だったから、きっと馬に追いかけられる夢を見たのでしょう。 あれから10年。 私は同じパソシコをこえました。 ラグーナベルでまでの道のりは前回書いたように非常につらく苦しいものだっただけに、10年前、一番つらかったこのパソシコも精神的に余裕を持って越えることができました。 覚えているところもあれば全然覚えてないところもありました。どちらかというと覚えていないところの方がほとんどでした。 でも、馬の夢を見たあの建物は忘れることができませんでした。 実はそれがどこにあるのか、何日目だったのか、全然覚えていなかったのですが。。。 10年たって、その建物を発見しました。10年前のあの日は今考えると、悪路と強風の中を峠と峠らしきところを3つも越えて、90km位走っていたことになります。 今回は最初から、泊まる場所をずらしていたので、エルラコに昼間についたので、エルラコには泊まらずにアルゼンチン側のイミグレまで走ってそこで泊めてもらいました。 だから、10年前に泊まった件の建物まではイミグレから50kmで到着したのですが、10年前はエルラコからそこまで走っているので、つらい1日だったはずです。 10年経って、件の建物は見事なほど完全に屋根が落ち、窓とドアはことごとく全てなくなっていました。 壁もところどころ崩れ、いまではテントを立てるのも、心もとない頼りなさでした。 あの煖炉は半壊し、テントを立てた部屋も落ちた屋根の残がいか、石や土砂が積もり、3分の2ほどがガレキで埋まり、残りはトイレになってました。 煖炉を前にした時、あのクラッカーの袋がフラッシュバックしてきて、10年の歳月を感じ、なんか突然感傷的な気分になってしまいました。 10年前、この建物を出て、10kmほどで、人の住む、普通の町、いや、村にたどり着いたことを覚えていたので、今回はそこまで走りました。 あの時はあと10km頑張ってればとちょっと悔しい思いをしたので覚えていた村でした。 そこから、60km最後の峠を越えてサンアントニオデコブレスという町に至ります。ここはガイドブックにも載っている、まあ、まともな町ですが、そこで、ひとりのサイクリストのおじさんと同じ宿になりました。 このおじさん、ここから、最初、私が行こうとしていた、サラルデオンブレムエルト(男の死の塩湖)方面に行くと言ってました。 この道は下手すると、ラグーナベルデよりも辛くなるかもしれないと、私は避けてしまったところにこれから行こうという人が現れたのでした。 ちょっと羨ましくも思い、ついて行こうかとすら思ったのですが、さっき越えてきた最後の峠をまた越えて、あの建物まで戻らなければなりません。そこから、さらにつらそうな道に入っていくのです。やっぱり考えただけで気が遠くなりそうだったので、やめてしまいました。 その代わり、南米最高の峠、アブラアカイ(アカイ峠、4895m)をこえて来ました。サンアントニオがすでに3700mということで、この峠は南米最高といっても、こっちから越えるのはそんなに大変じゃありませんでした。 いまは、サンフランシスコ峠という峠を越えて、チリ側に戻ろうとしています。あと3回。アンデスを越える予定です。 #
by fuji_akiyuki
| 2010-12-13 09:36
| チリ・アルゼンチン
一歩。また一歩。
足は砂に埋まり、権兵衛(自転車)のタイヤもズブズブと砂に沈んでゆきます。 最大限、食料と水を満載した権兵衛は軽く70kgを超える重量を持っているはずです。 ハンドルを持って押すだけでは動くことが出来ません。 一歩。一歩。 70kgを超える権兵衛を動かすにはフレームに手をかけて、持ち上げるようにしなければ動きません。 ここは標高4000mに広がる砂漠。ボリビア南部のラグーナベルデへ向かう途中。でも決して道ではありません。 そこまで続くものはツアーの四駆が作った轍のみ。もちろん、標識もキロポストも存在しません。 轍はラグーナベルデへ向けて、何千、何万と平行な筋を作り、4000mに広がる砂漠がまるで、綺麗に畝を作った永遠に広がる畑のようになってます。 しかし、その畝は砂でできているので、権兵衛のタイヤを容赦なく吸い込んで、走ることを許してくれません。 進むなら、進む戻るも、動くなら、権兵衛を押すしかありませんでした。 一歩。一歩。 轍に沿って、権兵衛を押します。砂の浅いところを選べばおのずと自分の足は砂の深い、畝に当たるところを歩かなければならないことになります。 それでもタイヤは砂に沈み、足場の悪いとろこで、踏ん張って、権兵衛を持ち上げながら、 一歩。一歩。 進んで行くしかありませんでした。 標高4000mに広がる砂漠には容赦なく冷たい強風が吹きつけてきます。 その、あまりの強さに恐怖を感じる風は殆どが、右か、前から吹き付けてきました。 一歩。一歩。 権兵衛に取り付けたスピードメーターは0km/hを示したままです。 自転車用のメーターなので、3.5km/h以下の速度は検出してくれません。 ただ、スポークに取り付けた磁石がタイヤが一周するたびにピックアップの前を通り、電気が走るので、その回数だけは確実に数えます。 一歩。一歩。 タイヤが一周するたびに2m弱進んだ事実だけをスピードメーターは積算していきます。 スピードメーターの距離計は10m単位。私が進んだことを実感できるのはタイヤが5周ほどして、距離計の少数第2位の位が動いたときだけです。 一歩。一歩。 一周。一周。 10m進むのも遠く感じるのに、砂漠に続く轍は地平線まで続いて行きます。 強風の吹きすさぶ中、地平線まで、これは本物の地平線ではなくて、丘のようなものなのですが、そこまで到達すると、また次の地平線まで砂漠の上の轍が続いていきます。 何度も、何度も地平線まで行っては絶望を感じました。 靴には砂や小石が入り込んで、いつの間にか、靴擦れと、小石が足の裏ですれたらしく、足の指の辺りが摺れて切れだして普通に歩くのも痛みを伴うようになる始末。 ペルーで、なまじハイカットのなんちゃって登山靴なんて買ってしまったものだから、砂や小石を出そうとするたびに靴紐を解いて、結びなおさなくてはなりませんでした。 でも、出してもすぐにまた入ってくるので、しょっちゅう靴を脱いだりはいたりも出来ずに我慢しているうちに擦れてしまったようです。 足は痛く、進みはのろく、先は気が遠くなるほど続いて、風は強く吹きすさみ、何度も絶望を感じているうちに日は西に傾いていきます。 この強風の中で、テントを立てるのは殆ど不可能に近い、どこかに風を防ぐ場所を見つけなくてはなりませんでした。 しかしそこは標高4000mに広がる砂漠、風を防ぐものなどどこにも見当たりません。 そんな絶望的な状態は焦りを生み、いろんな判断を狂わせます。 この旅の間に、何時の頃からか、私は風に対して、恐怖心を持つようになっていました。 強風に吹かれ続け、寒さを感じたり、ちょっと呼吸が苦しくなったりして、このまま風に吹かれたら、体温をドンドン奪われてしまうんじゃないかとか、いつか、呼吸が出来なくなるんじゃないかとか、そんな心配が産まれて、自転車で走っている時は、そこに逃げ場がないという恐怖が重なって、軽くパニックを引き起こすくらいになってました。 心拍数が上がって、上手く呼吸できなくなって、気が遠くなり、ちょっと発狂しそうになったことがあります。 一度そんな思いをしてから、めっきり風に恐怖を感じるようになってしまいました。 でも、それじゃ、パタゴニアにはいけません。 風は克服しなければならない障害の一つでした。 でも、落ち着いて、深呼吸を一回して、大丈夫、風に吹かれても呼吸は出来る、ちゃんとした装備をして、風に吹かれても体温は奪われない。自分にゆっくり言い聞かせることで、パニックに陥らずにすむことが分かってきました。 チベットでは、あんまり強風で、恐怖心が芽生えてくるようなら、かぜに背を向けて、休憩すると自分を落ち着かせることが出来ることを知りました。その時は背中ってこのためにあるだなぁって、真剣に思ったほどでした。 10年前にもこの辺りには来た事があったので、この辺りの風が強いことは予想していました。 ラグーナベルデまでの道のりは、10年前の雪辱のみならず、風を克服すること、そして、寒さを乗り越えること、が最大の目標になるものと思っていました。 ・・・が。 実際に行ってみたら、困難は風、寒さ、以上に、道路状態でした。 強風に吹かれ続けても、どうにかなりそうな気はしました、でも、走れないということは、テントをはれる場所まで到達できないという、新しい恐怖を生みました。 上記のように、本当に全然走れなくて、しかも、権兵衛を押して歩くのも非常に辛い、という道のりはそれほど長いものではなかったかもしれません。 でも、権兵衛に乗れない区間は結構長いものでした。 権兵衛を押せば何とか歩ける状態にある路面は、大体車のタイヤの幅しかありません。そして、そういうところに限って、コルゲーションと呼ばれる、車のサスペンションによってできる、洗濯板のような、凸凹が出来ています。 50cmに一つの割合で、凸凹を超えていかなければなりません。 くだりでもまったく乗れずに押さなければならないところもありました。 砂が浅くなって、ちょっと乗れるかな、と思ってもその幅は車タイヤ1本分。そこをはずれれば深い砂にタイヤを取られてしまいます。もちろん、コルゲーションで、洗濯板の上をタイヤ一本の幅で走らなければならないような状態でした。 自転車というのはこぎ始めが一番ふらつくので、そこで失敗すれば2mと進むことが出来ません。何とか最初のひと漕ぎ、ふた漕ぎがうまく行ったとしても、50cmごとの凸凹と、横から吹き付ける強風で、バランスを崩して、右か、左の砂の深いところに嵌ってしまいます。 砂漠地帯では30m、進めればいいほうでした。km単位で自転車に乗れるなんて奇跡でも起きなければ有りえない状態でした。 権兵衛に乗れるなら、乗ったほうが早く、楽に進むことが出来ます。でも、すぐ漕げなくなるなら、乗ったり降りたりするたびに体力も消耗するし、返って遅くなるので、諦めて、ゆっくりでもいいから押した方がいいじゃないだろうか。でも、権兵衛を押してると、もしかしたら、ここは結構乗れるんじゃないか?そんな風に思ったりします。 一日に進める距離が30kmくらいの日もありました。早く無人の砂漠地帯を抜けなければ水や食料がそこを尽きてしまいます。それどころか、この強風を防げるところを見つけられなければテントすら張れないと思うから、気は焦るばかりで、乗るか、押すかの判断も鈍ってきます。 焦りは全然乗れそうにないところで、一生懸命乗ろうとして、体力の浪費につながっていきます。 権兵衛を押しながら、強風に吹かれ、絶望に打ちひしがれながら、自分に強くなれ、強くなれと、時に声に出しながら言い聞かせて 一歩。一歩。 ラグーナベルデへ向かって行きました。 この7年(ちょっと早いですが)で、一番辛い走行(歩行?)になりました。 そして、そんな思いをして、10年間、行こう、行こうと思って、到着したラグーナベルデは・・・ 確かに綺麗は綺麗だったですが、到着したときに、その姿を目にしたときに何の感動もありませんでした。 もともと、あまりの辛さに今回は景色を楽しむ余裕はまったくありませんでした。 見ていたものは、前方2mの路面だけで、何が綺麗で、何が醜いのかとか、どうでも良くなって、ただただ、早くこの状況から抜け出したいという願望しかありませんでした。 山は自分の位置確認の道具にしか過ぎませんでした。地図と見比べて、アレが何とか山で、これがボルカノナントカだから今私はこの辺で、ああ、つぎはあの山とあの山の間を行けばいいはずだ。という具合に。 この区間で、唯一救いだったのはLaguna saladaにあった温泉だけでした。 温泉には管理棟のような建物はあるものの、ここには宿泊施設がないために、ツアーの車も立ち寄るだけで泊まることがありません。 私は管理棟の側で、風のあまり吹き込まないところにテントを張らせてもらいました。 夜は誰もいないので、温泉を独り占めにすることが出来ました。 その夜は計らずとも満月で、西に日が沈むと時を同じくして、東の空から満月が昇ってきて、その月がゆっくり天空に昇って行くさまを見ながら1時間半ほど湯に浸かっていました。 身体は芯からあったまったようで、氷点下の風にも寒さを感じることなく、テントの中でも朝まで寒いと思うことなくゆっくり眠ることが出来ました。 その標高4000mの温泉だけが唯一の救いであって、最高の贅沢だった様に思います。 ボリビアのウユニから、9日間をかけて、ようやくチリのサンペドロアタカマに着いたのがすでに3日前になってしまいました。 でも、9日間のダメージは思った以上に大きかったようで、足は靴擦れと小石のせいで、未だに傷が癒えず、やっぱり強かった日差しに目と唇がやられて、目は昨日まで痛くて、直射日光の下を歩くことも出来ませんでした。 唇の方は3日間、殆ど外に出ず、室内で日差しを避けていたにもかかわらず、未だに水ぶくれだらけです。 傷が癒えたら、またアンデスを越えて、アルゼンチンに向かいます。 ここは10年前にも通ったpasso sicoという峠です。ここは峠が5つも連続しています。 10年前、半年間の旅行の中で、寒さと風とダート道と、無人地帯で一番きつかったところですが、今回はもう少し楽に感じることが出来るでしょうか。 で、前回あんなことを書いておいて、その下の根も乾かないうちに一つ、逃げようかと考えているルートがあります。 passo sicoをこえて、アンデスを下らずにまた山の中に入って行くルートがあるんです。途中にsalar de hombre Muertって言う塩湖を突っ切るんですが、この塩湖の名前のsalar de hombre Muertって、“男の死の塩湖”って意味なんです。 そして、多分250kmほど続くそのルート上に村が一つ。更にそのルートを終えてすぐまたチリに抜ける峠を越えるというコースを取るつもりでした。 でも、ここ、今回ので、ちょっと懲り懲りしてて、このコースだと全然補給できるところがなく、アンデスを越えて、アンデスの山の中を走って、またアンデスを越えてチリに戻ってこなければならない羽目になってしまい、ちょっと現実的に今度こそ死ぬかもしれないって思って逃げてしまおうかなって思ってます。 その代わり、カファジャテ渓谷という、ちょっとツーリストにも有名な綺麗な渓谷を通るルートを通るつもりです。 でも、この道はこの道で、南米最高の峠、4890mくらいの峠を越えるそうですが。 ここから、あと4回くらいアンデスを越えて、チリとアルゼンチンを行ったりきたりしながらウシュアイアを目指したいと思っています。 今回、思ったのは、自転車に乗れない道は面白くありません、ただの苦行でした。ラグーナベルデには是非ランクルのツアーで。ってことでした。 #
by fuji_akiyuki
| 2010-11-26 11:54
| チリ・アルゼンチン
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